琴葉の方から来た。昼休み、図書室の自習コーナーで湊が取材ノートを広げていると、向かいの椅子に音もなく座った。
黒沢琴葉。三年生。生徒会副会長。美空の親友だった人。
「柊くん。美空のことを調べてるんでしょう」
前置きがなかった。微笑んでいるが、目が笑っていない。観察する目だ。湊を測っている。
「調べてるというか——」
「いいのよ。隠さなくて。この学校で美空のことを聞き回ってる人間は、今のところあなただけだから。目立ってる」
目立っている。湊は意識的に目立たないようにしていたつもりだったが、琴葉には見えていた。
「これ、見る?」
琴葉が鞄からクリアファイルを出した。中にA4の紙が十数枚。
美空の企画書のコピーだった。「声の地図」の企画概要。提出先は放送部の顧問——桐野直人。日付は昨年の六月。企画の趣旨、取材対象のリスト、完成予定日、使用機材。
湊はページをめくった。
取材対象リスト。商店街の八百屋、公園の犬の散歩、図書館の司書、文化祭実行委員の打ち合わせ——。穏やかなリストだ。「好きな音」の企画としての、無害な対象ばかり。
美空のノートにあった「最後に話したい人たち」のリスト——怒っている人、黙り続けている人、正しかったと思い込んでいる人、痛みを肩代わりしている人——は、どこにもなかった。
企画書の後半に、活動記録がある。取材日、取材対象、使用媒体、素材番号。素材一から素材八まではMD。ICレコーダーの記録は——ない。
IC-01からIC-12。美空のノートに書いてあった十二本のIC録音リスト。それがこの活動記録には一本も載っていない。
「琴葉先輩。これ、全部ですか」
「全部よ。美空が桐野先生に提出した企画書と、放送部の活動記録。私が保管してた」
「IC録音のリストは」
琴葉の指がクリアファイルの端で止まった。一秒。
「ICレコーダーの録音は、企画書に含まれていない。美空が個人的に録っていた分だから」
「個人的に」
「企画の範囲外。放送部の公式な活動とは別」
別。つまり——琴葉はIC録音の存在を知っている。知っていて、この資料から除外している。
湊は琴葉の顔を見た。微笑み。整った表情。生徒会副会長としての完璧な顔。
「先輩。美空のIC録音のことを、どこまで知ってますか」
「知ってるわよ。美空から聞いてた。——でも、それは美空の個人的な記録だから。誰かに見せるものじゃない」
「IC-09のことは」
琴葉の微笑みが——変わらなかった。変わらないこと自体が、変化だった。普通の人間なら、IC-09という番号を出されれば戸惑うか、驚くか、何らかの反応をする。琴葉は微笑みを維持した。準備していた。
「美空のノートを見たのね」
「はい」
「機材室の」
「はい」
琴葉がクリアファイルを鞄に戻した。丁寧に。角を揃えて。
「柊くん。一つだけ言っておく。私が美空の資料を管理しているのは、美空を守るためよ。死んだ後でも——人は傷つけられる。美空がやったことの全部が善意だったわけじゃない。でも全部が悪意だったわけでもない。その判断をできるのは、美空のことを一番近くで見ていた私だけ」
「先輩は——情報を選んでいる」
「そうよ。選んでる。安全なものだけ出す。危ないものは出さない」
「誰にとって危ないんですか」
「みんなにとって」
琴葉が立ち上がった。鞄を肩にかけた。鞄の中に——企画書のクリアファイルと、もう一つ、厚みのある封筒が入っているのが見えた。封筒の中身は見せなかった。
「柊くん。あなたが調べることは止めない。でも——見つけたものの扱い方は考えて。美空が善意で人の境界を越えて失敗したのと同じ失敗を、あなたにはしてほしくないの」
琴葉は図書室を出ていった。足音がしなかった。上履きの底が柔らかいのか、歩き方が静かなのか。
湊はノートに書いた。
「琴葉。美空の資料を管理。IC録音の存在を把握。IC-09への言及に動揺なし(事前準備あり)。封筒の中身は未開示。情報の統制者。——美空を守ろうとしているのか、何か別のものを守ろうとしているのか」
図書室の窓から、秋の光が差し込んでいた。十月の終わり。日が短くなっている。
琴葉が見せた資料は——正しかった。だが全部ではなかった。
全部ではないことが——全部よりも雄弁だった。