小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第14話「保健室の沈黙」

2,057文字 約5分

保健室の前を通りかかったのは偶然だった。

 五限目のあと、トイレに行く途中。保健室のドアが半開きになっていて、中にいる人影が見えた。

 白崎千紘。

 ベッドには座っていなかった。椅子に腰掛けて、腕を押さえていた。左腕。手首から肘にかけて。服の上から。

 保健室の先生はいなかった。デスクの上に「出張中」の札。

 湊はドアを開けた。千紘が顔を上げた。

「あ、柊くん」

「……具合悪い?」

「ちょっとだけ。すぐ戻る」

 千紘の声は明るかった。いつも通り。保健委員で、誰にでも優しくて、いつも笑っている白崎千紘。だが、腕を押さえている。

「腕、どうかした」

「何でもない。ぶつけただけ」

 ぶつけた腕を、あの力で押さえるだろうか。痛みを堪えているというよりは、抑え込んでいる。何かを。

 湊は保健室に入った。椅子を引いて、千紘の向かいに座った。

「少しだけ話してもいいか」

「いいけど、何の話?」

「文化祭の子どものこと」

 千紘の手が、一瞬だけ止まった。すぐに元の笑顔に戻ったが、止まった。

 文化祭。千紘が子どもの手に触れた瞬間に顔色が変わった。あの光景を、湊は見ていた。

「何もなかったよ? 子どもが転びそうになったから手を持っただけ」

「俺が聞きたいのは、手を持った後のこと」

「後?」

「千紘。手を持ったとき、何か感じたか」

 千紘の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。消えたのではない。薄くなった。微量の変化。でも湊には見えた。

「……何のことか分からないけど」

「嘘をつくのが下手だな」

「柊くん、直球すぎない?」

「すまん。千紘が話したくないなら、聞かない。でも、もし話せるなら」

 保健室の窓から風が入った。カーテンが揺れた。十月の風。

 千紘は腕を押さえたまま、窓の外を見た。長い沈黙。

「……触ると、分かるの」

「分かる?」

「その人が、隠してる痛み。体の痛みじゃなくて。心の。言えなかった悲しさとか、飲み込んだ怒りとか。触れた瞬間に、流れてくる」

 痛覚流入。千紘のキャラクターメモに書いてあった異変。文化祭のときの表情の変化は、触れた子どもの中にあった何かが、千紘に流れ込んだ。

「文化祭の子どもに触れたとき」

「あの子、おばあちゃんが先月亡くなったみたいで。まだ泣けてなかった。お母さんの前では泣けなくて。その痛みが、手から入ってきた」

 千紘の声が小さくなった。

「私の腕、あれから痛いの。ぶつけてないのに。あの子の痛みが、残ってる」

 腕を押さえている理由。ぶつけたのではない。他人の痛みが、物理的な痛みとして自分の体に残っている。

「いつからこうなった」

「一年くらい前から」

 一年前。事故の後。澪と同じだ。

「事故のことと、関係ある?」

 千紘の目が揺れた。

「……分からない。分からないけど。あの夜から」

 声が途切れた。千紘は窓の外を見ている。校庭。体育の授業をしている学年がいる。走っている生徒の声が遠くから聞こえる。

「聞いてもいいか。あの夜、千紘はどこにいた?」

 長い沈黙。

「保健室」

「保健室の鍵は」

「停電の前は開いてた。保健委員だから、鍵を持ってたの。停電で施錠された後は」

「外に出てた」

 千紘が湊を見た。笑っていなかった。初めて、笑顔のない千紘を見た。

「外に出てた。旧特別棟の方に、音が聞こえたから。足音。誰かの」

「足音」

「走ってる音。旧特別棟の方向から。私は保健委員だから。誰か怪我してるかもしれないって思って」

「行ったのか」

「……途中まで」

 途中まで。

「旧特別棟の前まで行って、止まった。暗くて、何も見えなくて。雨が降ってて。足音はもう聞こえなくなっていた。それで、引き返した」

「引き返した」

「引き返した。保健室に戻った。朝になって、美空のことを聞いた」

 千紘の左腕が震えていた。

「私があのとき、引き返さなければ」

「千紘」

「あと十分早く見つけてたら。美空は」

「千紘。それは」

「分かってる。分かってるけど。毎日考えるの。引き返さなければって。足音が聞こえたのに。聞こえたのに」

 保健室の沈黙。

 千紘の目から涙が落ちた。一粒。頬を伝って、制服の膝に落ちた。

 湊は何も言えなかった。「お前のせいじゃない」と言うのは簡単だ。でもそれは、千紘が毎日自分に言い聞かせて、毎日失敗している言葉だ。

「千紘。また来てもいいか」

 千紘は涙を拭いた。袖で。

「……うん」

「約束する。聞いたことは誰にも言わない」

「ありがとう」

 保健室を出た。廊下。五限目の始まるチャイムが鳴った。

 取材ノートにメモした。

 「千紘。事故夜、保健室→旧特別棟方向へ移動→足音を聞く→途中で引き返す。引き返したこと自体が後悔。痛覚流入は事故後に発生」

 足音。旧特別棟の近くで、誰かが走っていた。千紘はそれを聞いた。

 千紘が聞いた足音の主は、誰だ。

 美空か。美空以外の誰かか。

 そして千紘は、引き返した。引き返した十分が、美空の命を分けたかもしれない。

 かもしれない。

 確定ではない。だが千紘はそれを一年間抱えている。他人の痛みが自分の体に入ってくる異変と一緒に。

 窓の外で、体育の授業が終わりかけている。笛の音。生徒の声。

 普通の午後だ。

 普通の午後の中に、一年前の夜がまだ残っている。