澪は眠気に勝てなかった。
六限目の現代文。秋の午後。暖房が入り始めた教室。窓側の席。教科書の活字がぼやけている。前の晩、三時まで絵を描いていた。文化祭で出せなかった作品のやり直し。目が重い。
寝てはいけない。
分かっている。澪が寝ると、よくないことが起きる。
一年前の事故の後から。眠ると、近くにいる人の夢の断片を、寝言で喋ってしまう。
最初は気のせいだと思った。中学三年の冬、母親に「あんた、寝言で変なこと言ってたよ」と言われた。何を言ったか聞いたら、「知らない人の名前を呼んでた」と。母親は笑っていた。
気のせいじゃないと分かったのは、高校に入ってから。授業中に居眠りして、目が覚めたら隣の席の女の子が真っ青な顔をしていた。
「澪ちゃん……私のおばあちゃんの名前、なんで知ってるの」
知るはずがない。会ったこともない人のおばあちゃんの名前。女の子は、隣の席で、おばあちゃんのことを考えていた。お見舞いに行かなきゃと思いながら授業を受けていた。
澪はそれを、寝言で言った。
それから気をつけるようになった。人の近くで寝ない。特に教室では。授業中に眠気が来たら、顔を洗いに行く。保健室で寝るときは、ベッドの仕切りを閉めて、誰もいないことを確認する。
でも今日は、六限目。あと四十分。目が限界だった。
気づいたら、意識が落ちていた。
夢を見た。
階段を上っている。暗い階段。コンクリートの壁。手すりが冷たい。非常灯の薄い光。
これは、旧特別棟の階段だ。
澪は美術部だから旧特別棟に行ったことがある。去年まで美術準備室があった。だがこの階段は、知らない。旧特別棟の奥にある、使われていない階段。
上っている。自分の足で。だが自分の意思ではない。誰かの足で、誰かの夢の中で、上っている。
三階。四階。屋上への扉。
扉が開いている。風が吹いている。夜の風。星が見える。
屋上に、人がいる。
後ろ姿。長い髪。制服。
振り返りかけた。
「早瀬さん!」
目が覚めた。
教室。六限目。現代文の先生が澪を見ている。クラス全員が見ている。
隣の席の男子が、椅子を引いて、澪から距離を取っていた。顔が白い。
「早瀬さん。起きてますか」
「……すみません。寝てました」
「だいぶ長い寝言でしたよ。夢でも見ていましたか」
先生は笑って流した。だが隣の男子は笑っていなかった。
授業後。隣の男子、山下が、澪のところに来た。声をひそめて。
「早瀬。お前、さっき寝言で言ってた」
「何を」
「旧特別棟の階段を上っていく人の話。『四階まで上った。屋上のドアが開いてる。誰かいる。行かせないで』って」
行かせないで。
澪の背中に冷たいものが走った。
「俺の夢なんだよ、それ。昨日見た夢。旧特別棟の階段を上る夢。お前に言ったことないし、誰にも言ってない」
山下の目が怯えている。怒りではない。純粋な恐怖。
「……ごめん。私、寝ると」
「いい。もういい。気味悪い。ごめん。でも気味悪い」
山下は席に戻った。それ以上、澪に話しかけなかった。
放課後。澪は美術室に行かなかった。鞄を持って、校門を出た。
帰り道。商店街を通る道。十月の夕方。風が冷たい。
前から歩いてくる人影。
湊だった。
「澪」
「……湊」
「美術室に行かないの? 珍しいな」
「今日はいい。帰る」
並んで歩いた。幼なじみだから、黙って歩くのは慣れている。小学校の頃から同じ帰り道だ。
でも今日は黙っているのが辛かった。
「湊」
「ん」
「私、寝ると、人の夢を喋っちゃうの」
足が止まった。湊が澪を見た。
「人の夢?」
「近くにいる人が見てる夢の断片を、寝言で喋る。誰の夢か分からない。自分では覚えてないこともある。今日は、隣の席の山下くんの夢を喋っちゃった」
「いつから」
「一年前くらいから。事故のあと」
事故。美空の事故。一年前。
湊は何も言わなかった。しばらく歩いた。靴が砂利を踏む音だけ。
「今日は、何を喋った?」
「旧特別棟の階段を上る話。四階まで上って、屋上のドアが開いてて、誰かがいるって」
「屋上に誰かがいる」
「山下くんの夢なの。山下くんが昨日見た夢。私が知るはずのない内容。それを寝言で全部喋った」
湊が前を向いたまま言った。
「澪。『行かせないで』って言ったか」
澪の足が止まった。
「……何で知ってるの。山下くんから聞いた?」
「いや。推測。旧特別棟の屋上に誰かがいる夢で、一番自然に出る言葉を考えたら、それだった」
推測。湊はいつもこうだ。少ない情報から核心に近い場所を当てる。新聞部の取材感覚。
「行かせないで。それは山下の夢の中の言葉なのか。それとも」
「分からない。自分で言ってるのか、夢の中の誰かが言ってるのか。区別がつかない」
澪は自分の手を見た。絵を描く手。絵の具が爪の間に残っている。
「怖い?」
湊が聞いた。
「怖い。でも、一番怖いのは、夢の中の階段が本物の記憶かもしれないこと」
「本物の記憶」
「あの夜、事故の夜。誰かが旧特別棟の階段を上った。そのときの記憶が、一年経ってもこの学校のどこかに残ってて。夢の中に出てきて。私がそれを、拾ってる」
湊が黙った。長い沈黙。商店街の端まで歩いた。
「澪。一つだけ聞いていいか」
「何」
「『行かせないで』は、誰が、誰に言ってる」
澪は答えられなかった。
行かせないで。屋上に行かせないで。美空を、行かせないで。
それは誰の声か。美空に最後に会った人間の声か。止めようとして止められなかった人間の声か。
「……分からない。ごめん。分からないの」
「謝ることじゃない。ありがとう。話してくれて」
分かれ道。澪は右。湊は左。
「おやすみ、澪」
「おやすみ。湊」
「ん?」
「この話、あんまり人にしないでね」
「しない。約束する」
澪は一人で帰った。家の前で立ち止まった。ドアを開ける前に、空を見上げた。
星が出ていた。十月の空。
夢の中の星と、今の星が同じに見えた。
それが怖い。