小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第13話「夢のなかの階段」

2,345文字 約5分

澪は眠気に勝てなかった。

 六限目の現代文。秋の午後。暖房が入り始めた教室。窓側の席。教科書の活字がぼやけている。前の晩、三時まで絵を描いていた。文化祭で出せなかった作品のやり直し。目が重い。

 寝てはいけない。

 分かっている。澪が寝ると、よくないことが起きる。

 一年前の事故の後から。眠ると、近くにいる人の夢の断片を、寝言で喋ってしまう。

 最初は気のせいだと思った。中学三年の冬、母親に「あんた、寝言で変なこと言ってたよ」と言われた。何を言ったか聞いたら、「知らない人の名前を呼んでた」と。母親は笑っていた。

 気のせいじゃないと分かったのは、高校に入ってから。授業中に居眠りして、目が覚めたら隣の席の女の子が真っ青な顔をしていた。

「澪ちゃん……私のおばあちゃんの名前、なんで知ってるの」

 知るはずがない。会ったこともない人のおばあちゃんの名前。女の子は、隣の席で、おばあちゃんのことを考えていた。お見舞いに行かなきゃと思いながら授業を受けていた。

 澪はそれを、寝言で言った。

 それから気をつけるようになった。人の近くで寝ない。特に教室では。授業中に眠気が来たら、顔を洗いに行く。保健室で寝るときは、ベッドの仕切りを閉めて、誰もいないことを確認する。

 でも今日は、六限目。あと四十分。目が限界だった。

 気づいたら、意識が落ちていた。

 夢を見た。

 階段を上っている。暗い階段。コンクリートの壁。手すりが冷たい。非常灯の薄い光。

 これは、旧特別棟の階段だ。

 澪は美術部だから旧特別棟に行ったことがある。去年まで美術準備室があった。だがこの階段は、知らない。旧特別棟の奥にある、使われていない階段。

 上っている。自分の足で。だが自分の意思ではない。誰かの足で、誰かの夢の中で、上っている。

 三階。四階。屋上への扉。

 扉が開いている。風が吹いている。夜の風。星が見える。

 屋上に、人がいる。

 後ろ姿。長い髪。制服。

 振り返りかけた。

「早瀬さん!」

 目が覚めた。

 教室。六限目。現代文の先生が澪を見ている。クラス全員が見ている。

 隣の席の男子が、椅子を引いて、澪から距離を取っていた。顔が白い。

「早瀬さん。起きてますか」

「……すみません。寝てました」

「だいぶ長い寝言でしたよ。夢でも見ていましたか」

 先生は笑って流した。だが隣の男子は笑っていなかった。

 授業後。隣の男子、山下が、澪のところに来た。声をひそめて。

「早瀬。お前、さっき寝言で言ってた」

「何を」

「旧特別棟の階段を上っていく人の話。『四階まで上った。屋上のドアが開いてる。誰かいる。行かせないで』って」

 行かせないで。

 澪の背中に冷たいものが走った。

「俺の夢なんだよ、それ。昨日見た夢。旧特別棟の階段を上る夢。お前に言ったことないし、誰にも言ってない」

 山下の目が怯えている。怒りではない。純粋な恐怖。

「……ごめん。私、寝ると」

「いい。もういい。気味悪い。ごめん。でも気味悪い」

 山下は席に戻った。それ以上、澪に話しかけなかった。

 放課後。澪は美術室に行かなかった。鞄を持って、校門を出た。

 帰り道。商店街を通る道。十月の夕方。風が冷たい。

 前から歩いてくる人影。

 湊だった。

「澪」

「……湊」

「美術室に行かないの? 珍しいな」

「今日はいい。帰る」

 並んで歩いた。幼なじみだから、黙って歩くのは慣れている。小学校の頃から同じ帰り道だ。

 でも今日は黙っているのが辛かった。

「湊」

「ん」

「私、寝ると、人の夢を喋っちゃうの」

 足が止まった。湊が澪を見た。

「人の夢?」

「近くにいる人が見てる夢の断片を、寝言で喋る。誰の夢か分からない。自分では覚えてないこともある。今日は、隣の席の山下くんの夢を喋っちゃった」

「いつから」

「一年前くらいから。事故のあと」

 事故。美空の事故。一年前。

 湊は何も言わなかった。しばらく歩いた。靴が砂利を踏む音だけ。

「今日は、何を喋った?」

「旧特別棟の階段を上る話。四階まで上って、屋上のドアが開いてて、誰かがいるって」

「屋上に誰かがいる」

「山下くんの夢なの。山下くんが昨日見た夢。私が知るはずのない内容。それを寝言で全部喋った」

 湊が前を向いたまま言った。

「澪。『行かせないで』って言ったか」

 澪の足が止まった。

「……何で知ってるの。山下くんから聞いた?」

「いや。推測。旧特別棟の屋上に誰かがいる夢で、一番自然に出る言葉を考えたら、それだった」

 推測。湊はいつもこうだ。少ない情報から核心に近い場所を当てる。新聞部の取材感覚。

「行かせないで。それは山下の夢の中の言葉なのか。それとも」

「分からない。自分で言ってるのか、夢の中の誰かが言ってるのか。区別がつかない」

 澪は自分の手を見た。絵を描く手。絵の具が爪の間に残っている。

「怖い?」

 湊が聞いた。

「怖い。でも、一番怖いのは、夢の中の階段が本物の記憶かもしれないこと」

「本物の記憶」

「あの夜、事故の夜。誰かが旧特別棟の階段を上った。そのときの記憶が、一年経ってもこの学校のどこかに残ってて。夢の中に出てきて。私がそれを、拾ってる」

 湊が黙った。長い沈黙。商店街の端まで歩いた。

「澪。一つだけ聞いていいか」

「何」

「『行かせないで』は、誰が、誰に言ってる」

 澪は答えられなかった。

 行かせないで。屋上に行かせないで。美空を、行かせないで。

 それは誰の声か。美空に最後に会った人間の声か。止めようとして止められなかった人間の声か。

「……分からない。ごめん。分からないの」

「謝ることじゃない。ありがとう。話してくれて」

 分かれ道。澪は右。湊は左。

「おやすみ、澪」

「おやすみ。湊」

「ん?」

「この話、あんまり人にしないでね」

「しない。約束する」

 澪は一人で帰った。家の前で立ち止まった。ドアを開ける前に、空を見上げた。

 星が出ていた。十月の空。

 夢の中の星と、今の星が同じに見えた。

 それが怖い。