昼休みの放送室は、たいてい奈央が一人で使っている。
校内放送の編集作業。明日の連絡事項を録音し、BGMを選び、タイミングを合わせる。放送部に残ったのは奈央一人だ。美空が死んでからの一年、奈央はその作業を毎日一人でこなしてきた。
湊は用があって放送室を訪ねた。新聞部の原稿をチェックしてもらうためだ。放送部と新聞部は原稿を共有することがある。
ドアをノックした。返事がなかった。もう一度。
「……開いてる」
奈央の声。小さかった。
ドアを開けた。放送室。防音の壁。ミキサー。マイク。パソコンが一台。スピーカーが二つ。奈央がミキサーの前に座っていた。ヘッドフォンを首にかけている。
顔色が悪かった。
「倉橋。大丈夫か」
「大丈夫。何の用?」
「原稿のチェック。文化祭のまとめ記事」
「机に置いて。あとで見る」
湊は机の端に原稿を置いた。帰ろうとした。
スピーカーから音が漏れた。
奈央がミキサーのフェーダーに触れたのだろう。録音の再生音が、スピーカーから薄く流れ出た。
校内放送用の音声。明日の連絡事項を読み上げる奈央の声。「明日の五限は体育館に」
その声の裏に、別の音が混じっていた。
湊は足を止めた。
ノイズ。いや、ノイズではない。もっと規則的な音。人間の声のような。
「倉橋。今の」
奈央がフェーダーを下げた。音が止まった。
「機材の問題。古いミキサーだから、たまにノイズが入る」
「あれはノイズじゃなかった」
「ノイズよ」
奈央の声が硬かった。硬さの中に、恐怖があった。奈央は怖がっている。ノイズだと言い張っているが、自分でもそれを信じていない顔をしている。
「もう一度再生してくれないか」
「しない」
「倉橋」
「柊。お願いだから帰って」
湊は動かなかった。
奈央がヘッドフォンを握っている手が、わずかに震えていた。
「聞いてもいいか。あれは、美空の声だろう」
奈央の手が止まった。
沈黙。放送室の防音が、沈黙をより深くしていた。外の音が一切入ってこない。二人の呼吸だけ。
「……どうして」
「さっきの音。ノイズにしては周波数が安定してた。人の声の帯域。しかも、言葉になりかけている。機材のノイズは言葉にならない」
湊は新聞部だ。取材で録音を扱う。音の性質をある程度聞き分けられる。
奈央は椅子ごと湊の方を向いた。目が赤い。泣いたのか、泣きかけているのか。
「消したのに」
「消した?」
「全部消した。美空の録音。PCのデータもSDカードも。ICレコーダーも、処分した。何も残ってないはずなのに」
美空の録音を消したことは知っていた。EP008で奈央自身が認めたことだ。
「消したはずの声が、混じるの。私が録音した音声に。編集してるときは入ってない。でも再生すると、入ってる。ここ一週間で三回」
「三回」
「最初は聞き間違いだと思った。二回目はノイズだと思った。三回目の今日」
奈央は唇を噛んだ。
「今日は、はっきり聞こえた。『ごめんなさい』って」
ごめんなさい。
美空が繰り返していた言葉。同意なく録音してしまったとき。境界線を越えてしまったとき。
「声が入っているのは、再生時だけ? ファイルの波形には残っていない?」
「見た。波形には何もない。再生したときだけ」
再生したときだけ聞こえる声。データに残らない音。
説明がつかない。少なくとも、技術的な説明では。
湊は椅子を引いて、奈央の隣に座った。
「もう一度だけ再生してくれないか。俺も一緒に聞く」
「……聞いて、どうするの」
「分からない。でも、一人で聞くより、二人で聞いたほうがいい」
奈央は長い間黙っていた。十秒。二十秒。放送室の沈黙が重い。
フェーダーをゆっくり上げた。
奈央の声が流れた。「明日の五限は体育館に集合してください。持ち物は」
その声の底に。
薄い。消え入りそうなほど薄い。だが確かに、人の声があった。
高い声。女の子の声。言葉にはなっていない。なりかけている。唇が動いているのに、声がまだ形を結ばない、そんな音。
五秒で消えた。
奈央がフェーダーを下げた。
「……聞こえた?」
「聞こえた」
「言葉は?」
「分からなかった。なりかけてたけど、まだ形になっていなかった」
奈央がヘッドフォンを机に置いた。
「美空の声なの。私には分かる。一年間、毎日この部屋で一緒にいたから。あの声は、美空のもの」
湊は何も言えなかった。
超常現象だとは言いたくない。だが技術的に説明できない。ミキサーの故障、電磁波の干渉、隣室の音の漏れ。全部検討できる。だがどれも「再生時だけ」「波形に残らない」という条件を説明できない。
「倉橋。この話、他の誰かにしたか」
「してない。柊にも、本当はしたくなかった」
「でも聞かれた」
「聞かれた。あんたが来るから。放送室にノコノコ来るから」
怒っているのとは違う。困っている。声を消したはずなのに、声が戻ってくる。それが怖い。
「俺に話してくれてありがとう」
「感謝はいらない。帰って」
湊は立ち上がった。原稿はもう渡してある。用は済んだ。
ドアに手をかけたとき、奈央が言った。
「柊」
「ん」
「美空は、全部録っていた。好きな音だけじゃなく。この学校の、言えなかった声を」
「知ってる」
「IC-09。あの未同意の録音。あれが一番、危ない録音だった」
「誰の声が入ってる」
奈央は答えなかった。唇を結んだ。
「それだけは、まだ言えない。ごめん」
「分かった。また来ていいか」
「放送室じゃなければ」
「じゃあ屋上」
「屋上は寒い」
「自販機のコーンスープ奢るから」
奈央が少しだけ、本当に少しだけ、口の端を上げた。笑ったとは言えない。でも、唇の線が柔らかくなった。
「……考えとく」
放送室を出た。廊下。午後の日差しが窓から入っている。
消した録音が戻ってくる。美空の声が。
湊は取材ノートにメモを書いた。「EP012。放送室。奈央。再生時のみ声が混入。波形に残らない。IC-09について、まだ言えない」
ペンを閉じた。
言えないことが、まだある。
この学校には、まだ残響が残っている。