小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第12話「録音のなかの沈黙」

2,395文字 約5分

昼休みの放送室は、たいてい奈央が一人で使っている。

 校内放送の編集作業。明日の連絡事項を録音し、BGMを選び、タイミングを合わせる。放送部に残ったのは奈央一人だ。美空が死んでからの一年、奈央はその作業を毎日一人でこなしてきた。

 湊は用があって放送室を訪ねた。新聞部の原稿をチェックしてもらうためだ。放送部と新聞部は原稿を共有することがある。

 ドアをノックした。返事がなかった。もう一度。

「……開いてる」

 奈央の声。小さかった。

 ドアを開けた。放送室。防音の壁。ミキサー。マイク。パソコンが一台。スピーカーが二つ。奈央がミキサーの前に座っていた。ヘッドフォンを首にかけている。

 顔色が悪かった。

「倉橋。大丈夫か」

「大丈夫。何の用?」

「原稿のチェック。文化祭のまとめ記事」

「机に置いて。あとで見る」

 湊は机の端に原稿を置いた。帰ろうとした。

 スピーカーから音が漏れた。

 奈央がミキサーのフェーダーに触れたのだろう。録音の再生音が、スピーカーから薄く流れ出た。

 校内放送用の音声。明日の連絡事項を読み上げる奈央の声。「明日の五限は体育館に」

 その声の裏に、別の音が混じっていた。

 湊は足を止めた。

 ノイズ。いや、ノイズではない。もっと規則的な音。人間の声のような。

「倉橋。今の」

 奈央がフェーダーを下げた。音が止まった。

「機材の問題。古いミキサーだから、たまにノイズが入る」

「あれはノイズじゃなかった」

「ノイズよ」

 奈央の声が硬かった。硬さの中に、恐怖があった。奈央は怖がっている。ノイズだと言い張っているが、自分でもそれを信じていない顔をしている。

「もう一度再生してくれないか」

「しない」

「倉橋」

「柊。お願いだから帰って」

 湊は動かなかった。

 奈央がヘッドフォンを握っている手が、わずかに震えていた。

「聞いてもいいか。あれは、美空の声だろう」

 奈央の手が止まった。

 沈黙。放送室の防音が、沈黙をより深くしていた。外の音が一切入ってこない。二人の呼吸だけ。

「……どうして」

「さっきの音。ノイズにしては周波数が安定してた。人の声の帯域。しかも、言葉になりかけている。機材のノイズは言葉にならない」

 湊は新聞部だ。取材で録音を扱う。音の性質をある程度聞き分けられる。

 奈央は椅子ごと湊の方を向いた。目が赤い。泣いたのか、泣きかけているのか。

「消したのに」

「消した?」

「全部消した。美空の録音。PCのデータもSDカードも。ICレコーダーも、処分した。何も残ってないはずなのに」

 美空の録音を消したことは知っていた。EP008で奈央自身が認めたことだ。

「消したはずの声が、混じるの。私が録音した音声に。編集してるときは入ってない。でも再生すると、入ってる。ここ一週間で三回」

「三回」

「最初は聞き間違いだと思った。二回目はノイズだと思った。三回目の今日」

 奈央は唇を噛んだ。

「今日は、はっきり聞こえた。『ごめんなさい』って」

 ごめんなさい。

 美空が繰り返していた言葉。同意なく録音してしまったとき。境界線を越えてしまったとき。

「声が入っているのは、再生時だけ? ファイルの波形には残っていない?」

「見た。波形には何もない。再生したときだけ」

 再生したときだけ聞こえる声。データに残らない音。

 説明がつかない。少なくとも、技術的な説明では。

 湊は椅子を引いて、奈央の隣に座った。

「もう一度だけ再生してくれないか。俺も一緒に聞く」

「……聞いて、どうするの」

「分からない。でも、一人で聞くより、二人で聞いたほうがいい」

 奈央は長い間黙っていた。十秒。二十秒。放送室の沈黙が重い。

 フェーダーをゆっくり上げた。

 奈央の声が流れた。「明日の五限は体育館に集合してください。持ち物は」

 その声の底に。

 薄い。消え入りそうなほど薄い。だが確かに、人の声があった。

 高い声。女の子の声。言葉にはなっていない。なりかけている。唇が動いているのに、声がまだ形を結ばない、そんな音。

 五秒で消えた。

 奈央がフェーダーを下げた。

「……聞こえた?」

「聞こえた」

「言葉は?」

「分からなかった。なりかけてたけど、まだ形になっていなかった」

 奈央がヘッドフォンを机に置いた。

「美空の声なの。私には分かる。一年間、毎日この部屋で一緒にいたから。あの声は、美空のもの」

 湊は何も言えなかった。

 超常現象だとは言いたくない。だが技術的に説明できない。ミキサーの故障、電磁波の干渉、隣室の音の漏れ。全部検討できる。だがどれも「再生時だけ」「波形に残らない」という条件を説明できない。

「倉橋。この話、他の誰かにしたか」

「してない。柊にも、本当はしたくなかった」

「でも聞かれた」

「聞かれた。あんたが来るから。放送室にノコノコ来るから」

 怒っているのとは違う。困っている。声を消したはずなのに、声が戻ってくる。それが怖い。

「俺に話してくれてありがとう」

「感謝はいらない。帰って」

 湊は立ち上がった。原稿はもう渡してある。用は済んだ。

 ドアに手をかけたとき、奈央が言った。

「柊」

「ん」

「美空は、全部録っていた。好きな音だけじゃなく。この学校の、言えなかった声を」

「知ってる」

「IC-09。あの未同意の録音。あれが一番、危ない録音だった」

「誰の声が入ってる」

 奈央は答えなかった。唇を結んだ。

「それだけは、まだ言えない。ごめん」

「分かった。また来ていいか」

「放送室じゃなければ」

「じゃあ屋上」

「屋上は寒い」

「自販機のコーンスープ奢るから」

 奈央が少しだけ、本当に少しだけ、口の端を上げた。笑ったとは言えない。でも、唇の線が柔らかくなった。

「……考えとく」

 放送室を出た。廊下。午後の日差しが窓から入っている。

 消した録音が戻ってくる。美空の声が。

 湊は取材ノートにメモを書いた。「EP012。放送室。奈央。再生時のみ声が混入。波形に残らない。IC-09について、まだ言えない」

 ペンを閉じた。

 言えないことが、まだある。

 この学校には、まだ残響が残っている。