小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第1話「残響のはじまり」

3,097文字 約7分

九月の光は、夏の残りかすみたいに教室の床を這っていた。

 窓から差す西日が、机の天板に長い四角を落としている。その四角が少しずつ傾いていくのを、柊湊は六時間目の国語の授業中ずっと見ていた。教科書は開いている。ノートも開いている。だが書いているのは取材メモの続きだった。来月号の学校新聞のネタ。統廃合に関する生徒アンケートの集計結果。回答率三十二パーセント。低い。だが去年はもっと低かった。

 来年の三月には、県立星原高校は名前ごとなくなる。

 隣の市の高校と統合される。校舎は取り壊される。グラウンドは更地になる。いつか何かが建つ。この教室のこの光も、来年の夏にはもうない。

 チャイムが鳴った。六時間目の終わり。教室がざわめく。椅子を引く音、鞄を閉じる音、誰かの笑い声。湊は原稿用紙を鞄に入れ、席を立った。

 廊下に出ると、放課後の校内放送が流れていた。

 天井のスピーカーから、委員会の連絡事項が読み上げられている。明日の避難訓練の時間変更。文化祭実行委員の集合場所。部活動の教室割り当て。放送部の二年生の声だ。少し早口で、原稿を読み慣れた調子。廊下の空気に溶けるように響いている。

 湊はそのまま通り過ぎようとした。

 そのとき、放送のノイズが変わった。

 ザー、と砂を踏むような音が一瞬走った。スピーカーが古いのは今に始まったことじゃない。この校舎の放送設備は十五年前のもので、雨の日は特にノイズが入る。だが今日は晴れていた。

 ノイズの隙間に、別の声が混じった。

「聞こえてるかな」

 女の声だった。柔らかくて、少しだけ笑みを含んでいて、マイクとの距離が近い。囁くほど小さくはないが、教室の後ろまで届かせるつもりもないような、誰か一人に向けて話しかけるような声。

 二秒。三秒。

 声が途切れた。ノイズが消えた。連絡事項の読み上げに戻った。文化祭のポスター提出期限は金曜日まで。

 湊は廊下の真ん中で立ち止まっていた。

 足が動かなかった。胸の奥で何かが引っかかっている。針金の先が肋骨の内側に触れたような、小さくて、でも無視できない感触。

 周りを見る。他の生徒は歩き続けている。隣を通り過ぎた女子二人組は、明日の避難訓練が面倒だと話していた。後ろから来た男子が、イヤホンを片耳につけたまま湊の横を抜けていった。

 誰も足を止めていない。

 聞こえていなかったのか。あの声を。

 湊は知っている声だった。

 一年前に死んだ有馬美空の声だ。

 正確に言えば、美空の声を直接聞いたのは数えるほどしかない。去年の秋、新聞部の取材の一環で、放送部が制作した音声作品の文字起こしを頼まれた。短い作品だった。十分弱。街の人々の声を録音して編集した、ドキュメンタリーのようなもの。商店街の八百屋のおじさん。公園で犬を散歩させている女性。図書館の司書。それぞれの「この街で好きな音」を語ってもらうという企画。

 湊はその音源を何度も巻き戻しながら、一語一語を書き起こした。ヘッドフォンの中で、美空のナレーションが繰り返された。静かで、丁寧で、言葉の角を一つずつ確かめるような話し方だった。

 録音の冒頭に、彼女の独り言が入っていた。テスト録音の消し忘れらしい。「聞こえてるかな」。その一言と、少しだけ笑う気配。湊はそれを文字起こしには含めなかった。本編とは関係がなかったから。

 でも、声は覚えていた。

 あの声だ。今、スピーカーから聞こえた声は。

 廊下の壁に手をついた。指先が冷たかった。コンクリートの壁の、塗り直されたペンキの手触り。ざらついて、少し湿っている。

 放送室は一階の奥にある。

 湊は階段を降りた。一段ずつ。急ぐ理由はないはずなのに、足が速くなっていた。一階の廊下は教室棟より薄暗い。窓が少なく、蛍光灯の白い光が廊下を均一に照らしている。

 放送室のドアの前に立つ。ドアの小窓から中が見える。機材を片づけている人影。

 ノックした。返事を待たずに開けた。

 倉橋奈央が椅子に座って、ミキサーのケーブルをまとめていた。放送部の二年生。ショートカットの髪が、窓からの西日で金色に縁取られている。ケーブルを手際よく八の字巻きにする手つきは慣れたもので、機材の扱いが身体に染みついている人間の動きだった。

「倉橋さん」

 奈央が顔を上げた。一瞬、本当に一瞬だけ、何かを計るような目をした。それはすぐに消えて、普通の表情に戻った。湊がその一瞬を見逃さなかったのは、たまたまだった。

「……柊くん? 新聞部の。どうしたの?」

「さっきの放送、途中でノイズが入ったの、聞こえた?」

 奈央の手が止まった。ケーブルを持ったまま、二秒ほど黙った。二秒は長い。会話の中の二秒の沈黙は、たいてい何かを考えている。

「ノイズ?」

「ザーッていう音のあとに、声みたいなのが混じった。ほんの二、三秒。女の人の声」

 奈央はケーブルに視線を落とした。八の字巻きの手を再開した。さっきよりも速い。

「機材が古いから。ときどき拾うんだよね、前の録音の残りとか。SDカードとか、ハードディスクに残ってる古いデータが再生されちゃうことがあって。気にしなくていいよ」

 声は平坦だった。説明としては筋が通っている。古い機材、古いデータ、偶発的な再生。技術的にありえない話ではない。

 けれど、ケーブルを巻く手の速さが元に戻らなかった。

「前の録音って、いつ頃の?」

「さあ、いろいろ溜まってるから。去年のとか、一昨年のとか。フォーマットすれば消えるんだけど、全部やる暇がなくて」

 奈央は笑った。自然な笑顔だった。口角の上がり方、目元の皺の入り方、すべてが自然だった。自然すぎた。人間が本当に何も感じていないとき、笑顔はもう少し雑になる。きれいに整った笑顔は、大抵、何かを覆い隠すためのものだ。

「ありがとう」

 湊はそう言って放送室を出た。

 廊下を歩く。靴音がコンクリートに響く。校舎の端まで来ると、窓の外にグラウンドが見えた。サッカー部が練習している。ボールを蹴る音が、ガラス越しにくぐもって聞こえる。日常の音だ。

 奈央の説明は合理的だ。古い機材にデータが残っていて、それがノイズとして再生された。ありえる話だ。

 でも、あの声は録音の残骸には聞こえなかった。

 圧縮されたデジタルデータがランダムに再生されたなら、もっと歪んでいるはずだ。途切れ途切れで、ピッチがずれて、言葉として聞き取れないノイズになるはずだ。あの声は、生きている人間が、今、マイクの前に座って喋っているように聞こえた。温度があった。息遣いがあった。

 校門を出る。九月の風がぬるく吹いた。蝉の声はもう聞こえない。代わりに、どこかで金木犀の匂いがする。まだ早い気もするが、今年は残暑が短かった。

 柊湊が有馬美空のことを考えるのは、久しぶりだった。

 一年前の事故のことは、この学校では誰もがそっと避けて通る話題になっている。教師も生徒も。校長が全校集会で「前を向いて進みましょう」と言ってから、美空の名前を口にする人間は減った。前を向く。便利な言葉だ。振り返らなくていいという意味でもある。

 落雷を伴う悪天候の夜、停電した旧特別棟で、有馬美空は転落して死んだ。事故。完全な事故。警察の調べでも、学校の報告書でも、そう結論づけられている。

 でも、完全な事故なら。

 なぜ奈央は、あんなに速くケーブルを巻いていたのだろう。

 帰り道。住宅街の細い道を歩く。塀の上をのそのそ歩いている灰色の猫とすれ違った。猫は湊をちらりと見て、興味なさそうに目をそらした。

 イヤホンをつけた。音楽を再生した。何も考えたくなかった。いつもの帰り道、いつもの夕方、いつもの日常。

 でも耳の奥に、音楽の下で、あの声がまだ残っていた。

「聞こえてるかな」

 聞こえている。

 まだ、聞こえている。