小説置き場
再建屋 梶 誠一

第9話「合流」

1,770文字 約4分

桐嶋との情報交換は、毎週一回になった。

 場所はその都度変える。新宿御苑の遊歩道、上野公園のベンチ、多摩川の河川敷。室内は使わない。桐嶋の原則だ。

 三回目は多摩川だった。十一月の河川敷は風が冷たい。枯れ草が揺れている。向こう岸にマンション群が見える。

 奏は千葉県船橋市に行っていた。桐嶋に教えられた公営住宅。六人目の推定住所。

「事実を確認する。行ってきました」

「様子は」

「公営住宅の三階。表札はありました。名前は河野。三十代の男性が一人暮らし。出勤と帰宅の時間帯を二日間観察しました」

「接触は」

「していません。約束通り。観察だけ」

 桐嶋が頷いた。

「外見的な異変は」

「なし。スーツにネクタイで出勤。帰宅は午後七時前後。コンビニの袋を持っている。一人暮らしの男性の標準的なパターンです。ただ」

「ただ?」

「帰宅時に、マンションの入口で立ち止まっていました。五秒くらい。周囲を確認してから入る。後ろを見てから、建物に入る」

 桐嶋がメモを取った。万年筆。

「尾行されていると感じている可能性がある。あるいは、もう、何かが始まっている」

 ステップ一か二。口座への不審な入金か、上司の態度の変化か。まだ初期段階かもしれないが、本人が無意識に警戒行動を取り始めているということは、何かを感じている。

「桐嶋さん。接触のタイミングは」

「まだ早い。もう一つ、情報が要る」

「何が」

「河野が内部告発しようとしている対象。介護保険の補助金不正の中身。それが分からないと、防御の設計ができない。お前の領域だ」

 奏の領域。帳簿を読む。数字の矛盾から全体像を組み立てる。

「公開データベースで介護保険の補助金交付実績を調べます。河野が所属していた部署の管轄分を抜き出せば、不正の規模と手口が推測できるかもしれません」

「頼む」

 河川敷を歩きながら、話題が変わった。

「拠点が要る」桐嶋が言った。

「拠点」

「毎回外で会っているが、限界がある。資料を広げる場所がない。データを照合する作業ができない。PCを開ける場所が要る」

「あなたの事務所は」

「あそこは駄目だ。俺の事務所は既に見られている可能性がある。七年間、独立して動いてきたが、最近になって建物の前に見覚えのない車が停まることがある」

 見られている。桐嶋の事務所が監視されている可能性。機構か、別の勢力か。

「候補がある」桐嶋が続けた。「千葉の内房。館山の手前。廃刊した地方紙の旧社屋。二階建て。一階が元印刷場で二階が元編集室。大家は別にいるが賃料は月二万。電気と水道は生きている」

「条件としては悪くない」

「問題は、まだ人が住んでいる。元編集長の御手洗幸。七十二歳。廃刊後も社屋に住み続けている。大家が黙認している」

「御手洗幸。その名前は」

「機構との接点は確認できていない。だが廃刊の経緯が不自然だ。地方紙としては堅実な経営をしていたのに、三年前に広告主が一斉に引き揚げた」

 広告引き揚げ圧力。機構の手口。

「まず下見をしましょう。建物の状態と、御手洗という人物の様子を確認してから」

「ああ。来週、一緒に行く。電車賃は俺が出す」

 奏は少し驚いた。桐嶋は金の話を避ける人間だ。

「いいんですか」

「お前の家計が厳しいのは報告書に書いてある。おにぎりを二つに分けて朝と夜に食べる人間に、交通費を自腹で出させるのは」

「非合理的ですか」

「非合理的だ。投資対効果が悪い。お前が倒れたら調査が止まる」

 投資対効果。桐嶋は信頼ではなく合理性で話す。だがその合理性の中に、おにぎりを二つに分ける人間を見ている目があることに、奏は気づいていた。

「ありがとうございます」

「礼は要らない。記録しろ」

「もう書いてます」

 奏は手帳を見せた。「桐嶋:交通費を負担すると申し出。理由は投資対効果。実態は——」

 そこで止まっていた。

 「実態は」の後が空白だった。

 桐嶋がそれを見て、何も言わなかった。

 河川敷の向こうで、夕日が多摩川の水面を赤く染めていた。二人は並んで歩いた。距離は一メートル半。変わらない。

 信頼ではない。まだ。

 だが「二人と一つ」が何を指すか、奏には分かり始めていた。二人の人間と、一つの目的。それだけでいい。友情も信頼も、今は要らない。目的があること。そしてそれを共有する人間がいること。

 おにぎりを二つに分ける生活は変わらない。だが、来週の電車賃は出る。それだけで——少し、呼吸が楽だった。