小説置き場
再建屋 梶 誠一

第8話「看破」

1,794文字 約4分

桐嶋からのメールに、PDFが添付されていた。

 パスワードは前回と同じ八桁。開いた。

 中身は奏自身の調査報告書だった。

 黛奏。二十九歳。元国税局調査官。懲戒免職。現住所、湊裏区のアパート三号室。翻訳の下請け仕事で月収約十一万円。通帳の残高推定。行動範囲。最寄りのコンビニで毎日おにぎりを二つ買う。コーヒーは安い粉を規定量の半分で淹れる。

 ここまで詳しいのか。

 奏は報告書を最後まで読んだ。誤りはなかった。

 メールの本文にはこう書いてあった。

 「俺が最初にやったのは、お前の身辺調査だ。あんたと会う前から、既に終わっていた。この事実を隠しておくのは信条に反する。信じるな、記録しろ。記録を開示する」

 奏はパソコンの画面を閉じた。

 コーヒーを淹れた。規定量の半分。いつもの薄い琥珀色。

 椅子に座って、窓の外を見た。湊裏区の午後。隣のビルの壁。

 驚いてはいなかった。

 桐嶋が身辺調査をしていたことは、最初に会った日から分かっていた。桐嶋の目の動き。奏の背後と手元を同時に確認する視線配分。あれは初対面の相手を見る目ではなく、既に情報を持っている人間が、情報の精度を確認する目だ。

 奏は翌日、桐嶋に電話をかけた。

「報告書を読みました」

 三秒の間があった。

「正確です。一点だけ訂正があります。コーヒーの粉は規定量の半分ではなく、最近は三分の二に増やしました」

 電話の向こうで、三秒の沈黙。

「……増やしたのか」

「ええ。少し余裕ができたので」

 嘘だ。余裕はない。だが、桐嶋の報告書に「三分の二」と修正させることで、桐嶋の情報が最新ではないことを示したかった。「あなたの情報にも穴がある」という、静かな牽制。

「桐嶋さん。身辺調査をしていたことは、最初から知っていました」

 沈黙。五秒。

「いつ気づいた」

「最初の日です。事務所で会ったとき。あなたの目が、初対面の目ではなかった」

「……税務調査官は、目を読むのか」

「帳簿を読むのと同じです。数字が合わないところに、意図がある」

 桐嶋は何も言わなかった。十秒。

 奏は続けた。

「知っていて、何も言わなかったのは——あなたが情報を開示するのを待っていたからです。隠したまま協力するなら、信用できない。開示するなら——」

「信用できるかどうかは別として、少なくとも手の内を見せる気はあると」

「そうです」

 また沈黙。今度は長かった。二十秒。電話の向こうで、桐嶋が何かを飲む音がした。コーヒーか。

「奏。お前と組むことに決めた」

 名前で呼ばれたのは初めてだった。

「理由は」

「俺が調べたことを知っていて、それでも会いに来た人間は信用に値する。少なくとも、怖がって逃げない人間とは仕事ができる」

 組む。

 「信じるな、記録しろ」の男が、「組む」と言った。

「条件を一つ」奏は言った。

「何だ」

「互いの行動を報告し合うこと。調査の進捗、接触した人間、移動先。全部。記録として共有する」

「それは、俺の信条そのものだ」

「ええ。だからあなたに提案しています」

 桐嶋が笑った。声に出して。短く。だが確かに笑い声だった。

「いいだろう。拠点が要るな。毎回新宿御苑で会うわけにもいかない」

「拠点の候補があるなら聞きます」

「千葉の内房に、廃刊した地方紙の旧社屋がある。二階建て。一階が元印刷場、二階が元編集室。大家は別にいるが、賃料は月二万。電気と水道は生きている。ただし、問題がある」

「何ですか」

「まだ人が住んでる」

 御手洗幸。元地方紙編集長。桐嶋のリストには入っていない人物。

「桐嶋さん。その人物は、機構に壊された人間ですか」

「確証はない。だが、廃刊の経緯が不自然だ。広告主が一斉に引き揚げた。理由は公にされていない」

 広告引き揚げ圧力。調停機構の手口の一つ。封筒の資料には記載されていなかったが、信用破壊の変形だ。

「会いに行きますか」

「まだだ。まず下見をする。建物の状態を確認する。住人に接触するのはその後だ」

「順番、ですね」

「ああ。順番だ」

 電話を切った。

 奏はメモ帳を開いた。今日の通話の内容を、一語一語書き出した。桐嶋が「奏」と呼んだこと。「組む」と言ったこと。笑ったこと。

 記録だ。信頼ではなく、記録。

 だが——記録の行間に、何かが増えていることに、奏は気づいていた。信じるとは違う。信じるの手前にある何か。

 名前を呼ばれたこと。それだけのことが、コーヒーの味を少しだけ濃くした。

 規定量の三分の二。嘘ではなくなるように、明日から本当にそうしようと思った。