小説置き場
再建屋 梶 誠一

第7話「記録」

1,881文字 約4分

桐嶋が指定した場所は、新宿御苑の外周の遊歩道だった。

 事務所ではなく屋外。室内は盗聴のリスクがある、と桐嶋は言った。元公安の習慣だろう。奏は十一月の風の中、コートの襟を立てて歩いた。

 桐嶋は遊歩道のベンチに座っていた。ジャケットにジーンズ。紙コップのコーヒーを持っている。コンビニのホットコーヒー。奏もベンチに座った。距離は一メートル半。近すぎず、遠すぎない。

「船橋に行ったか」

「来週にしました。今週は翻訳の納品が三件」

「そうか」

 桐嶋は追及しなかった。金の事情を察しているのかもしれない。元公安なら、他人の経済状態を読むのは基本技能だ。

「確認したいことがある」奏は手帳を開いた。A5サイズのノート。新しく買った。百均で百十円。「あなたのリストに七人目の欄があった。空白の。七人目を想定している根拠は」

「根拠はない。だが、機構の処理は周期的だ。二年から三年に一件のペースで、同じ手口が繰り返されている。六人目の処理が始まっているなら、七人目がいてもおかしくない。欄を空けておくのは、準備だ」

 奏は手帳に書いた。「処理周期: 2-3年/1件」。

「機構の内部構造について、あなたはどこまで」

「断片だ。公安にいた頃に掴んだのは、末端の工作担当者の動きだけだ。中間管理層、執行部と呼ばれる層の存在は推測しているが、裏付けはない。最上位の評議部については名前すら聞いたことがない」

「評議部という名称は、どこから」

 桐嶋が奏を見た。目が鋭くなった。

「あんた、知ってるのか」

「封筒の資料にはなかった。だが——」奏は手帳のページをめくった。国会図書館で見つけた情報。一九五二年の引き継ぎ文書。「GHQからの移管文書に、『調整機能の移管』という一行があった。調整機能を引き継いだ日本側の組織が、三層構造であることを示す別の文書が——」

「別の文書?」

「まだ見つけていない。だが、三層構造であるという仮説は立てている。下層が現場、中層が執行、上層が方針決定。その上層を評議部と呼ぶかどうかは、別の情報源から確認が必要」

 桐嶋は紙コップのコーヒーを飲んだ。二秒、黙った。

「あんた、本当に税務調査官だったんだな」

「元、ですが」

「いや。今もだ。帳簿を読むように、組織を読んでる」

 奏は手帳に書き続けた。桐嶋の言葉を。一語一語。

「それ、全部記録してるのか」

「あなたが教えてくれた。信じるな、記録しろ」

 桐嶋の口角が、わずかに動いた。笑いとまでは言えない。だが初めて見る表情だった。

「……いい度胸だ」

 銀杏の葉が風に飛ばされてきた。黄色い。一枚がベンチの上に落ちて、桐嶋のジャケットの肩に載った。桐嶋は気にしなかった。

「桐嶋さん。封筒の差出人について、もう一つ仮説がある」

「聞く」

「差出人は、あなたに封筒を送って三ヶ月後に、私に送った。その間、あなたの動きを観察していた。あなたが独自にリストを作り、被害者を追跡していることを見て、私を選んだ。なぜ私を選んだか。帳簿を読む能力が必要だったから」

「帳簿?」

「機構の資金の流れを追うには、財務の知識が要る。あなたは公安出身で、調査と尾行と情報収集のプロだ。だが帳簿は読めない。差出人は、あなたに足りないピースとして、私を送り込んだ」

 桐嶋は三秒黙った。

「だとすれば、差出人はチームを組ませたがっている」

「ええ。一人では届かない場所に、二人なら届く。差出人はそれを知っていて、順番に駒を配置している」

「駒か」

「差出人にとっては、そうでしょう。私たちは差出人の意図の中で動いている。それを自覚した上で、それでも動く価値があるかどうかが、問題です」

 桐嶋はコーヒーを飲み干した。紙コップを潰して、ポケットに入れた。ゴミ箱が近くにない。奏はそういう行動を見ている。紙コップを地面に捨てない人間。ポケットにしまう人間。小さなことだが、記録に値する。

「動く価値はある」桐嶋が言った。「駒だろうが何だろうが、六人目が壊される前に情報を揃える必要がある。差出人の思惑に乗ることと、六人目を守ることは、今のところ矛盾しない」

「今のところ、は」

「矛盾したら、そのとき考える」

 奏は頷いた。手帳を閉じた。

 帰り道、御苑の外周を歩きながら、手帳を開いて今日の会話を読み返した。桐嶋の言葉。自分の言葉。間の沈黙の長さ。

 記録は嘘をつかない。

 だが、記録しなかった部分もある。桐嶋の口角がわずかに動いた瞬間。銀杏の葉が肩に落ちたのを気にしなかった仕草。紙コップをポケットにしまう手つき。

 それらは記録ではなく——記憶だ。

 信じるな、記録しろ。

 奏は桐嶋を信じてはいない。だが、記録以外のものが、少しだけ増えていた。