小説置き場
再建屋 梶 誠一

第6話「生活費」

1,960文字 約4分

翻訳の納品が一件遅れた十月の午後、奏はパソコンの画面に表示された納期超過の通知を見つめていた。

 初めてのことだった。国税局時代から、黛奏は締切を破ったことがない。だが埼玉への往復を二回、新宿を一回、国会図書館を一回。調査に時間を取られ、翻訳の作業時間が足りなくなった。

 クライアントに謝罪のメールを送った。納期を二日延長してもらった。クライアントは「今回は大丈夫ですが、次回以降はご留意ください」と返してきた。丁寧だが、信用の目減りが行間ににじんでいた。

 奏は椅子に座って、ペンを回しながら家計を計算した。信用残高が減っている、と思った。クライアントとの間に積み上げてきた信用の口座から、遅延という形で引き出しが発生した。

 月の収入。翻訳の下請け三件で約十一万円。今月は一件遅延したので、来月の発注が減る可能性がある。

 月の支出。家賃三万二千円。光熱費八千円。食費二万五千円(一日あたり約八百円)。通信費三千円。雑費五千円。合計七万三千円。

 残り約三万七千円。これが蓄えに回る——はずだった。

 今月の調査関連支出。埼玉への電車賃往復二回で三千二百円。新宿への電車賃往復一回で四百円。国会図書館への電車賃往復一回で六百円。コンビニでの食事(調査日の昼食)三回で千五百円。合計五千七百円。

 五千七百円。月の余剰の一五パーセント。

 今月だけなら問題ない。だがこのペースで調査を続ければ、三ヶ月で蓄えが削れる。六ヶ月で生活が回らなくなる。

 奏はコーヒーを淹れた。規定量の半分。

 桐嶋からメールが来た。

 「六人目の所在地候補を絞った。千葉県船橋市の公営住宅。ただし確度は五割以下。現地確認が必要」

 船橋。電車賃は片道七百円。往復千四百円。

 奏はメールを閉じた。

 今週は行けない。翻訳の遅延を取り戻さなければならない。

 返信を打った。

 「確認しました。今週中の訪問は難しい。来週以降で調整します」

 送信した。

 桐嶋からの返信は一行だった。

 「了解。急がなくていい」

 急がなくていい。桐嶋はそう書いたが、六人目の処理は進行中だ。ステップ一から始まっている。一週間が経てば、ステップ二に進んでいるかもしれない。

 だが電車賃が出せない。

 奏はおにぎりを食べた。昆布。冷たい。もう一つは明日の朝に取っておく。

 窓の外を見た。湊裏区の夕暮れ。隣のビルの壁に夕日が当たって、コンクリートがオレンジ色に染まっている。

 調停機構は金を使わせない手口で人を壊す。口座の入金記録で信用を崩し、匿名の電話で人間関係を壊し、証拠を捏造して職を奪う。奏はその手口を知っている。身をもって経験した。

 だが、壊された後の人間が直面する最大の敵は、機構ではない。

 生活費だ。

 家賃を払い、電気を点け、米を買い、電車に乗る。それだけのことが、月に七万三千円かかる。調査をすれば交通費が加わる。調査に時間を取られれば翻訳の収入が減る。収入が減れば調査に回す金がなくなる。

 循環だ。壊された人間は、壊れたままでいることを生活に強いられる。

 奏はパソコンを開いた。翻訳の仕事を始めた。英文のマニュアル。医療機器の操作説明書。専門用語が多い。一語ずつ確認しながら進める。

 三時間後、納品した。

 それから、もう一度桐嶋のメールを開いた。千葉県船橋市。公営住宅。

 電車賃。千四百円。

 奏は引き出しを開けた。封筒の資料が入っている。白紙のページ。十四枚の処理記録。

 白紙のページを取り出して、テーブルの上に置いた。

 何も書かれていない紙。差出人の意図。奏に何をさせたいのか。

 封筒の資料をもう一度読み返した。ステップ一からステップ六まで。処理の手順書。

 もし、この手順書を「防御マニュアル」として書き直せたら。

 機構の手口を知っている人間は、防ぎ方も設計できるはずだ。ステップ一の段階で気づけば、ステップ二に進む前に対処できる。口座の不審な入金を即座に記録し、銀行に問い合わせ、証拠を確保する。上司の態度の変化を記録し、第三者に報告する。

 六人目を直接助けることはできない。桐嶋が言った通り、接触すれば機構に気づかれる。

 だが、手順書を渡すことならできるかもしれない。匿名で。機構の手口と、その防ぎ方を記した文書を。

 奏はメモ帳を開いた。ペンを取った。

 「防御手順書(案)」と書いた。

 書いてから、ペンを置いた。

 これは正しいのか。匿名の文書を渡す行為は——奏に封筒を送った差出人と、同じ構造ではないか。

 誰かに匿名で情報を渡し、反応を見る。

 同じだ。

 奏は白紙のページを見つめた。十秒。

 違う。

 差出人は奏の反応を観察していた。奏は六人目を守ろうとしている。動機が違う。

 動機が違えば、行為の意味は変わるのか。

 奏は分からなかった。

 コーヒーを飲んだ。冷めていた。

 明日も翻訳の仕事がある。来週、船橋に行く。千四百円を捻出する方法を考える。

 おにぎりのもう一つは、やはり明日の朝に食べる。