小説置き場
再建屋 梶 誠一

第5話「標的」

1,906文字 約4分

桐嶋からメールが来たのは、会ってから三日後だった。

 件名はなかった。本文も一行だけ。

 「添付を確認しろ」

 添付ファイルはPDF。パスワード付き。パスワードは事務所を出るとき、桐嶋が紙に書いて渡した八桁の英数字だった。紙はその場で破いて捨てた。奏は八桁を記憶していた。

 PDFを開いた。

 表。手打ち。罫線が不揃いで、一部の文字が詰まっている。桐嶋が自分で作った資料だ。

 縦に人名が七つ並んでいる。

 一人目は奏自身だった。名前、元所属、処理時期、処理手口の概要、現在の状態。「現在の状態」の欄に「湊裏区・翻訳下請け・単独行動中」と書いてある。正確だ。

 二人目から五人目は、封筒の資料と一致した。文部科学省の元課長補佐。国土交通省の元技官。農林水産省の宮田。総務省の元主査。

 六人目。

 奏の手が止まった。

 封筒の資料には五人分しか入っていなかった。桐嶋のリストには六人いる。

 六人目。厚生労働省。元係長。名前は黒塗りで、桐嶋も本名を特定できていないらしい。処理時期の欄には「進行中?」と疑問符がついている。現在の状態は「不明」。

 進行中。

 五人は全員、処理が完了した過去の被害者だ。だが六人目は——今、まさに処理されている最中かもしれない。

 奏はコーヒーを淹れた。規定量の半分。お湯は九十度で、二分で注いだ。手が、わずかに震えていることに気づいた。

 七人目の欄は空白だった。名前も所属もない。だが欄そのものは存在していた。桐嶋は七人目がいる可能性を想定している。

 奏は電話をかけた。桐嶋が出たのは四コール目。

「リストを見た。事実を確認する」

「感想は」

「六人目。厚生労働省の元係長。進行中という根拠は」

「三ヶ月前、厚労省の内部通報制度に匿名の告発が入った。介護保険の補助金不正に関するもの。告発者はまだ特定されていないが、告発の精度から考えて内部の人間だ。そして先月から、告発者と思われる人物の周辺で、音が動き始めた」

「音?」

「銀行口座に小さな入金があった。職場で上司の態度が変わった」

 ステップ一とステップ二。

 奏が経験したのと同じ手順が、今、別の人間に対して進行している。

「桐嶋さん。この人物を守る方法はありますか」

「守る?」

「処理が完了する前に、手口を本人に知らせて対策を」

「やめろ」

 桐嶋の声が鋭くなった。初めて感情が混じった声だった。

「接触すれば、お前の存在が機構に知られる。封筒を受け取った人間が動いていると分かれば、機構は対象者の処理を加速する。善意の介入が最悪の結果を招く」

 善意の介入。

 奏は黙った。

 正しい。桐嶋の言っていることは正しい。接触すればこちらの存在が露見し、対象者の危険が増す。だが今この瞬間にも、ステップが一つずつ進んでいる。

「では、どうすれば」

「まず情報を集める。相手の手口と速度を正確に把握する。それから介入のタイミングを計る。順番がある」

 順番。

 奏はメモ帳にペンを走らせた。「順番」と書いた。下線を引いた。

「桐嶋さん。封筒のことですが」

「ああ」

「あなたに届いたのは三ヶ月前。私に届いたのは三週間前。時差がある。同じ差出人なら、なぜ時期をずらしたのか」

「考えはあるか」

「一つだけ。差出人は、受取人の反応を見ている。桐嶋さんが封筒を受け取ってどう動いたかを観察してから、次の受取人、私に送った。テストだ。一人目の動きを見て、二人目を選んでいる」

 電話の向こうで、桐嶋が息を吐いた。笑いではない。納得。

「同じことを考えた。差出人は計画的だ。ばら撒いているんじゃない。選んでいる」

「選ぶ基準は」

「分からん。だが、少なくとも俺たち二人に共通するものがある。調査能力。そして——機構に壊されても、立ち直った人間だということだ」

 立ち直った。

 奏はその言葉を頭の中で転がした。自分が立ち直ったのかどうか、よく分からなかった。十二万円に届かない翻訳収入で、六畳間に住んで、コーヒーの粉を半分しか使わない生活が「立ち直り」かどうか。

 だが、動いている。調べている。止まっていない。

「情報交換を続けましょう」

「ああ。ただし、六人目には手を出すな。まだ早い」

「分かっています」

 電話を切った。

 窓の外は曇っていた。湊裏区の空は、いつも少し低い。

 奏はPDFをもう一度開いた。六人目の欄を見つめた。

 厚生労働省。元係長。進行中。

 今、この人物の口座に、説明困難な入金が記録されているかもしれない。上司の視線が変わり始めているかもしれない。家族の日常に、小さなひびが入り始めているかもしれない。

 奏は知っている。そのひびが、どれほど静かに広がるかを。

 翻訳の仕事を一件開いた。英文のマニュアル。指がキーを叩く。画面の文字が増える。

 頭の別の場所で、六人目のことを考え続けていた。