桐嶋からメールが来たのは、会ってから三日後だった。
件名はなかった。本文も一行だけ。
「添付を確認しろ」
添付ファイルはPDF。パスワード付き。パスワードは事務所を出るとき、桐嶋が紙に書いて渡した八桁の英数字だった。紙はその場で破いて捨てた。奏は八桁を記憶していた。
PDFを開いた。
表。手打ち。罫線が不揃いで、一部の文字が詰まっている。桐嶋が自分で作った資料だ。
縦に人名が七つ並んでいる。
一人目は奏自身だった。名前、元所属、処理時期、処理手口の概要、現在の状態。「現在の状態」の欄に「湊裏区・翻訳下請け・単独行動中」と書いてある。正確だ。
二人目から五人目は、封筒の資料と一致した。文部科学省の元課長補佐。国土交通省の元技官。農林水産省の宮田。総務省の元主査。
六人目。
奏の手が止まった。
封筒の資料には五人分しか入っていなかった。桐嶋のリストには六人いる。
六人目。厚生労働省。元係長。名前は黒塗りで、桐嶋も本名を特定できていないらしい。処理時期の欄には「進行中?」と疑問符がついている。現在の状態は「不明」。
進行中。
五人は全員、処理が完了した過去の被害者だ。だが六人目は——今、まさに処理されている最中かもしれない。
奏はコーヒーを淹れた。規定量の半分。お湯は九十度で、二分で注いだ。手が、わずかに震えていることに気づいた。
七人目の欄は空白だった。名前も所属もない。だが欄そのものは存在していた。桐嶋は七人目がいる可能性を想定している。
奏は電話をかけた。桐嶋が出たのは四コール目。
「リストを見た。事実を確認する」
「感想は」
「六人目。厚生労働省の元係長。進行中という根拠は」
「三ヶ月前、厚労省の内部通報制度に匿名の告発が入った。介護保険の補助金不正に関するもの。告発者はまだ特定されていないが、告発の精度から考えて内部の人間だ。そして先月から、告発者と思われる人物の周辺で、音が動き始めた」
「音?」
「銀行口座に小さな入金があった。職場で上司の態度が変わった」
ステップ一とステップ二。
奏が経験したのと同じ手順が、今、別の人間に対して進行している。
「桐嶋さん。この人物を守る方法はありますか」
「守る?」
「処理が完了する前に、手口を本人に知らせて対策を」
「やめろ」
桐嶋の声が鋭くなった。初めて感情が混じった声だった。
「接触すれば、お前の存在が機構に知られる。封筒を受け取った人間が動いていると分かれば、機構は対象者の処理を加速する。善意の介入が最悪の結果を招く」
善意の介入。
奏は黙った。
正しい。桐嶋の言っていることは正しい。接触すればこちらの存在が露見し、対象者の危険が増す。だが今この瞬間にも、ステップが一つずつ進んでいる。
「では、どうすれば」
「まず情報を集める。相手の手口と速度を正確に把握する。それから介入のタイミングを計る。順番がある」
順番。
奏はメモ帳にペンを走らせた。「順番」と書いた。下線を引いた。
「桐嶋さん。封筒のことですが」
「ああ」
「あなたに届いたのは三ヶ月前。私に届いたのは三週間前。時差がある。同じ差出人なら、なぜ時期をずらしたのか」
「考えはあるか」
「一つだけ。差出人は、受取人の反応を見ている。桐嶋さんが封筒を受け取ってどう動いたかを観察してから、次の受取人、私に送った。テストだ。一人目の動きを見て、二人目を選んでいる」
電話の向こうで、桐嶋が息を吐いた。笑いではない。納得。
「同じことを考えた。差出人は計画的だ。ばら撒いているんじゃない。選んでいる」
「選ぶ基準は」
「分からん。だが、少なくとも俺たち二人に共通するものがある。調査能力。そして——機構に壊されても、立ち直った人間だということだ」
立ち直った。
奏はその言葉を頭の中で転がした。自分が立ち直ったのかどうか、よく分からなかった。十二万円に届かない翻訳収入で、六畳間に住んで、コーヒーの粉を半分しか使わない生活が「立ち直り」かどうか。
だが、動いている。調べている。止まっていない。
「情報交換を続けましょう」
「ああ。ただし、六人目には手を出すな。まだ早い」
「分かっています」
電話を切った。
窓の外は曇っていた。湊裏区の空は、いつも少し低い。
奏はPDFをもう一度開いた。六人目の欄を見つめた。
厚生労働省。元係長。進行中。
今、この人物の口座に、説明困難な入金が記録されているかもしれない。上司の視線が変わり始めているかもしれない。家族の日常に、小さなひびが入り始めているかもしれない。
奏は知っている。そのひびが、どれほど静かに広がるかを。
翻訳の仕事を一件開いた。英文のマニュアル。指がキーを叩く。画面の文字が増える。
頭の別の場所で、六人目のことを考え続けていた。