翌日の午後六時、五人は旧社屋の一階にいた。
昨日の作戦の振り返りを終えた。次の手順の確認も終えた。帰るタイミングだった。だが誰も立ち上がらなかった。
御手洗が最初に動いた。
「食事にしましょう」
提案というよりも、事実の確認に近い口調だった。全員が今日まだ昼食を食べていないことを、御手洗は知っていた。知っているのは、御手洗が五人分の行動を見ているからだ。記者の目は人の食事を見る。食事を見れば生活が分かる。
桐嶋がコンビニに走った。五人分の弁当と、追加のドリップコーヒーのパックを買ってきた。走ったという表現は正確ではない。歩いて行って、歩いて帰ってきた。だが所要時間は八分だった。最寄りのコンビニまで徒歩五分の距離を。
弁当は五つ。幕の内が二つ、のり弁が二つ、鮭弁が一つ。桐嶋は五つを無造作にテーブルの上に置いた。
「好きなのを取れ」
*
奏が幕の内を取った。御手洗がもう一つの幕の内を取った。詩音がのり弁を取った。来栖が残りのもう一つののり弁を取った。桐嶋に鮭弁が残った。
桐嶋は鮭弁の蓋を開けて、何も言わなかった。自分が最後に取ることを計算していたのか、単に残りものに頓着しないのか。おそらく後者だ。
割り箸を割る音が五つ。ほぼ同時だった。
五人がテーブルを囲んで弁当を食べた。
旧社屋の一階には長テーブルが一つある。かつて『公器』の編集部で、原稿の校正作業に使われていたテーブルだ。天板に赤ペンのインクの染みがいくつか残っている。御手洗がそれを消さなかったのは、消す理由がなかったからだ。
五人が同時に食事をするのは、これが初めてだった。
作戦会議では集まる。情報交換では集まる。だが食事のために集まったことはない。今日も食事のために集まったわけではない。帰るタイミングを逃しただけだ。
だが結果として、五人がテーブルを囲んでいる。
*
詩音はのり弁を黙々と食べていた。箸の動きが速い。食べることに集中している。対面に座っている御手洗の視線を避けているわけではない。食べるときは食べることしかしない。
御手洗が言った。
「永瀬さん。あなた、食べるの速いわね」
詩音の箸が一瞬止まった。
「……作業中に手を止めたくないので」
「食事は作業じゃないのよ」
「作業です」
御手洗は微かに笑った。笑ったように見えた。唇の端が一ミリほど上がっただけかもしれない。
桐嶋が鮭弁の鮭をほぐしていた。骨を外している。丁寧な手つきだった。元公安の男が弁当の鮭の骨を丁寧に外している光景を、誰も見ていなかった。全員が自分の弁当に向き合っていた。
来栖はのり弁を半分ほど食べて、箸を置いた。
「僕、これ以上食べられないんですが」
桐嶋が来栖を見た。
「残すな」
「すみません。量が」
「残すな。買ってきた人間の前で残すな」
来栖は三秒黙って、箸を持ち直した。のり弁の残りを食べた。最後まで。
桐嶋は来栖を見ていなかった。鮭弁を食べていた。
奏は幕の内を食べ終えた。米粒を一つも残さない食べ方だった。おにぎりを一つ買って半分を翌日に回していた頃の習慣が残っている。御手洗がそれを見ていた。見ていて、何も言わなかった。
*
食事が終わった。
御手洗が立ち上がって、コーヒーを淹れ始めた。
ドリップコーヒー。桐嶋が買ってきたパックではなく、御手洗が常備している豆を使った。手回しのミルで豆を挽いた。挽く音が旧社屋に響いた。カリカリという乾いた音。五人分の豆を計量した。四十グラム。一人八グラム。
湯を沸かした。八十五度で止めた。ドリッパーにペーパーフィルターを折り込み、粉を入れ、湯を細く注いだ。粉が膨らむ。二十秒蒸らす。再び注ぐ。
五つのマグカップに注ぎ分けた。五つとも同じ量。均一な色。
「どうぞ」
五つのカップがテーブルに並んだ。湯気が立ち上っている。蛍光灯の光の中で、湯気が薄く見えた。
奏はカップを手に取った。いつもの白いマグカップ。御手洗の棚に定位置がある。
口をつけた。
濃い。
御手洗のコーヒーは苦いと思っていた。だがそれは濃さの問題だった。私がいつも淹れるコーヒーは規定量の半分の粉で淹れている。御手洗のコーヒーは規定量だ。規定量のコーヒーを飲むのは——いつ以来だろう。国税局にいた頃以来かもしれない。
飲んだ。
苦い。だが苦いだけではない。苦みの奥に、甘みがある。甘みという言葉は正確ではないかもしれない。苦みが舌の上を通り過ぎた後に残る、何か。余韻。コーヒーにも余韻がある。
「濃いですね」
御手洗が言った。
「いつもこの濃さよ」
「知っています。私が——私のコーヒーが薄いんです」
「薄いのが好きなの」
「好きなのではなく、慣れただけです」
慣れ。国税局を辞めてから三年。翻訳の下請けで月十二万円に届かない収入。コーヒーの粉を規定量の半分にするのは節約だった。節約が習慣になり、習慣が味覚になった。薄いコーヒーが「自分のコーヒー」になった。
だが今飲んでいるコーヒーは御手洗のコーヒーだ。規定量の粉。八十五度の湯。三分の抽出。プロの手順で淹れられた、まともな濃さのコーヒー。
御手洗は何も言わなかった。コーヒーを飲んだ。
*
詩音がコーヒーを両手で包むように持っていた。温かさを確認するように。
桐嶋はカップの取っ手を持たずに、カップの縁を指で挟んで持っていた。変わった持ち方だった。だが誰も指摘しなかった。
来栖はコーヒーを一口飲んで、カップをテーブルに置いた。
「美味しいです」
御手洗が来栖を見た。
「お世辞はいらないわよ」
「お世辞ではないです。機構にいた頃はインスタントしか飲まなかった。豆から挽いたコーヒーを飲んだのは、ここに来てからです」
来栖の言葉が本当かどうか、誰にも分からなかった。本当かもしれない。嘘かもしれない。だがその瞬間、来栖の声には距離がなかった。いつもの丁寧な距離感が、一口のコーヒーの間だけ消えていた。
五人がテーブルを囲んでコーヒーを飲んでいる。
蛍光灯が一本点いている。窓の外は暗い。一月の午後七時。旧社屋の一階。段ボールが壁沿いに十八箱。長テーブルに赤ペンの染み。空になった弁当の容器が五つ、テーブルの端に重ねてある。
誰かが何かを言ったわけではない。誰かが何かを宣言したわけでもない。
だが五人がテーブルを囲んでいる時間の中に、それまでなかった空気があった。作戦会議の緊張でも、情報交換の効率性でもない。もっと曖昧な、名前のつかない空気。
組織の空気、と呼べるかもしれない。
桐嶋が紙コップではなくマグカップでコーヒーを飲んでいる。詩音が対面の御手洗の存在を気にせずにカップを持っている。来栖が距離のない声で「美味しい」と言った。御手洗が五人分のコーヒーを淹れた。
私はそれを見ていた。見ていて、ノートには書かなかった。
書くべきことかもしれない。だがペンを取る気にならなかった。
コーヒーが冷めていく。濃いコーヒーは、冷めると味が変わる。苦みが強くなる。だが飲めないほどではない。
私はカップの底まで飲み干した。
「ごちそうさまでした」
御手洗が頷いた。
「また淹れるわ」
それは、次もここに集まるということだ。次もここで食事をするということだ。
誰もそう言わなかった。だがコーヒーカップを流し台に持っていったとき、私は自分のカップがいつもの場所に戻ることを知っていた。棚の左から三番目。御手洗が決めた場所。
五人分のマグカップが棚に並んでいる。
それが組織の形だった。