午前七時二十八分。旧社屋の一階に五人が揃った。
集合時間の二分前。全員が時間通りだった。奏はそれをノートに記録しなかった。記録するまでもない事実だ。時間を守る人間が五人いる。それだけのこと。
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桐嶋が出たのは七時四十五分だった。
現地は千葉県船橋市。宮田の妻と子供二人が暮らしている住所。詩音が自治体の公開データと不動産登記情報から特定した。桐嶋はその住所の周辺を午前中に歩き、監視の有無を確認する。
電車に乗った。車内で来栖の予測メモを読み返した。
「監視は常時ではない。週に二回、水曜と金曜の午前中に巡回がある。巡回担当は一名。車両は白のセダン。駐車位置は宮田宅から三百メートル南のコインパーキング」
今日は金曜日。巡回がある日だ。
来栖の予測が正確なら、午前中に巡回担当がいる。接触は午後に行う。巡回担当が離れた後に。
予測が不正確なら——それも情報になる。
船橋駅で降りた。北口から出て、住宅街に向かった。一月の朝。気温は四度。息が白い。スニーカーの紐は昨夜結び直した。問題ない。
住宅街は静かだった。朝の通勤時間帯を過ぎた住宅地の空気。子供を送り出した後の静けさ。洗濯物を干す音。犬の散歩をする老人。桐嶋はジャケットのポケットに手を入れて歩いた。周囲を見ていないように見えて、全てを見ている。公安で身につけた技術だ。視線を動かさずに視界の端で情報を拾う。
宮田の妻の住居は、駅から徒歩十二分のマンションの三階だった。築二十年。オートロックなし。駐輪場に自転車が数台。
桐嶋はマンションの前を通り過ぎた。立ち止まらない。通り過ぎながら確認した。
南に歩いた。三百メートル。コインパーキングが見えた。
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午前九時十二分。桐嶋からチャットが入った。
『南のコインパーキングに白のセダン。来栖の予測通り。ナンバーは品川。一名乗車。男。四十代。座ったまま動かない』
旧社屋の二階で詩音がメッセージを読んだ。指がキーボードの上で止まった。
来栖の予測が当たった。
隣の画面で、詩音は品川ナンバーの白いセダンのレンタカー会社を特定しようとしていた。公開情報だけで。レンタカーの車両登録番号からレンタカー会社を特定することは、一般に公開されているデータベースでは難しい。だが、過去の中古車販売記録が一部のサイトに残っている場合がある。
見つからなかった。別のアプローチに切り替えた。コインパーキングの運営会社の公開情報から、そのパーキングの利用頻度を推測した。住宅街の小規模パーキング。平日午前の利用率は低いはずだ。来栖の言う通り、定期的な利用者がいれば目立つ。
チャットに打った。
『パーキングの月極契約の有無は公開情報では確認できません。ただし平日午前の利用率が低い立地です。定期利用なら管理会社に記録がある可能性』
奏の返信。
『確認は不要です。桐嶋さんの目視で十分。午後の行動に移ります』
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午前十一時四十分。白のセダンがコインパーキングを出た。桐嶋が確認した。
チャットに報告。
『セダン離脱。南方向へ。来栖の予測では、巡回は午前中で終わる。次の巡回は水曜日。午後は安全圏の可能性が高い』
来栖の返信。
『一つ確認を。セダンが離脱する前に、宮田宅の前を通過しましたか』
桐嶋が答えた。
『していない。パーキングから直接大通りに出た』
来栖が打った。
『通過しなかったのは異常です。通常の巡回なら対象の住居の前を一度は通る。巡回担当が宮田宅を確認しなかったということは、二つの可能性がある。一つ、宮田が既にその住所にいない。二つ、宮田自身が機構と直接連絡を取っていて、巡回の必要がない』
五秒の沈黙。チャットに何も表示されない。
奏が打った。
『二つ目の可能性を確認します。御手洗さん、予定通り午後に宮田の妻への接触を進めてください。来栖さん、機構の保護プログラムについて知っていることを教えてください』
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来栖は旧社屋の一階の椅子に座っていた。奏が隣に座った。
「保護プログラム。正式名称は知らない。現場では『帰還』と呼んでいた」
「帰還」
「機構に壊された人間が、壊された後に機構に保護を求めるケースがある。稀だが、ある。壊された側は、壊した相手が誰かを知らない場合が多い。だが何かの拍子に機構の存在を察知し、自分から接触する。機構はその人間を受け入れる。情報を管理しやすくなるから」
奏はノートに書いた。帰還。自発的保護。情報管理。
「宮田がその状態にある場合、何が変わりますか」
「宮田の家族への接触が、機構に察知される速度が上がる。宮田自身が機構に報告する可能性がある」
「宮田の家族は」
「家族は知らない場合が多い。宮田が一人で機構と繋がっている。家族は宮田が行方不明だと思っている」
奏はペンを止めた。五秒。
「予定を変更します。宮田の妻への接触は予定通り行う。ただし、宮田本人には接触しない。宮田が機構と繋がっている可能性がある以上、宮田に情報が渡れば作戦全体が露見する」
来栖は頷いた。
「もう一つ。家族との接触の際に、宮田の消息を伝えることは可能ですか」
「消息は伝えます。ただし『生きている』という事実だけ。居場所は伝えない。居場所を伝えれば家族が動く。家族が動けば機構が察知する」
来栖は何も言わなかった。
*
午後二時十五分。御手洗は船橋駅前のカフェにいた。
向かいに、四十代の女性が座っていた。宮田の妻。旧姓に戻している。名前は伏せる。
御手洗は名刺を出した。『公器』の元編集長。廃刊した雑誌の肩書きだが、名前に覚えがあったらしい。女性は名刺を見て、三秒黙った。
「宮田の件でしょうか」
「ええ」
「どなたからの依頼ですか」
「依頼ではありません。お伝えしたいことがあります」
女性の手がテーブルの上で組まれた。指先が白い。
「夫は生きていますか」
「生きています」
七秒の沈黙。カフェの中で、他の客の会話とBGMが聞こえている。その七秒間、御手洗の耳にはそれらが聞こえなかった。女性の表情だけを見ていた。
女性の目が赤くなった。泣いてはいない。泣くための準備が体の中で始まっている。だがこの人はここでは泣かないだろうと御手洗は思った。六年間泣かなかった人間は、カフェでは泣かない。
「どこにいるんですか」
「それはお伝えできません。今は」
「なぜ」
「ご主人の安全に関わります」
女性は組んだ手を解いた。テーブルの下に降ろした。
「あの人は、何かに巻き込まれたんですか」
「巻き込まれました。ご自身の意思ではなく」
「六年前から、ずっと」
「はい」
女性は椅子の背にもたれた。天井を見た。三秒。
「子供たちに、何と言えばいいですか」
「お父さんは生きている。それだけで十分だと思います」
「十分じゃない」
御手洗は何も言わなかった。十分ではないことを、御手洗は知っている。三十年前、記事を出さなかったとき、妻に「十分」と言った。十分ではなかった。
女性がテーブルの上に手を戻した。指先の白さが消えていた。
「また来てくれますか」
「必要があれば」
「必要がなくても来てください」
御手洗は頷いた。名刺の裏に携帯番号を書いた。女性はそれを財布にしまった。
カフェを出た。一月の午後。日差しが低い。
御手洗はチャットを開いた。
『接触完了。宮田の生存を伝えた。居場所は伝えていない。再接触の約束をした』
奏の返信。二分後。
『お疲れさまでした』
御手洗は携帯を閉じた。
駅に向かって歩いた。足が重かった。宮田の妻の「十分じゃない」が耳に残っていた。