小説置き場
再建屋 梶 誠一

第46話「前夜」

3,220文字 約7分

午後十一時。旧社屋の一階に誰もいなくなった。

 五人はそれぞれの場所に散った。明日の作戦開始は午前八時。集合は七時半。確認事項は全て終えてある。あとは実行するだけだ。

 実行するだけ、という状態は人を落ち着かなくさせる。

           *

 黛奏は六畳の自室に戻った。湊裏区のアパート三階。テーブルの上のノートパソコンは閉じたまま。翻訳の納品が二件残っているが、今夜は触らない。

 百均のA5ノートを開いた。三冊目の後半に差しかかっている。一冊目は桐嶋との情報交換の記録。二冊目は調停機構の構造分析。三冊目は作戦の記録だった。

 私はボールペンのキャップを外した。

 手順を書く。明日の手順。すでに全員で確認済みの内容を、もう一度自分の手で書き直す。

 一、宮田の現住所の最終確認(詩音の情報に基づく)。二、桐嶋による現地の安全確認。三、来栖の予測に基づく機構側の監視パターンの回避。四、御手洗の旧知を通じた宮田の家族への接触経路の確保。五、私が宮田の家族に防御手順書を渡す。

 書きながら、手順の隙間を見ている。数字と数字の間にある余白。帳簿を読むときと同じだ。書いてあることではなく、書いていないことを探す。

 手順書に書いていないこと。宮田が移動していた場合。宮田の家族が接触を拒否した場合。機構の監視が想定外の場所に配置されていた場合。

 想定外は起きる。起きたときに何をするかを、私はまだ書いていない。

 想定外への対処は、手順には書けない。書けるのは、想定外が起きたときに立ち戻る原則だけだ。

 ノートの余白に一行書いた。「撤退の判断は現場の桐嶋に委ねる」。

 コーヒーを淹れようとして、やめた。今夜は眠るべきだ。インスタントの粉の瓶を棚に戻し、水を一杯飲んだ。

 ノートを閉じた。ペンをノートの上に置いた。

 窓の外は暗い。一月の夜。明日の天気予報は晴れ。気温は三度。

 布団に入った。目を閉じた。眠れるかどうかは分からない。分からないが、横になることはできる。

           *

 桐嶋徹は新宿の雑居ビル四階の事務所にいた。

 デスクの上にはノートパソコンと紙コップ。紙コップの中身は缶コーヒーの残り。冷めている。飲まない。

 椅子に座り、足元を見た。

 スニーカー。グレーのローカット。三年前に買った。ソールが減っている。尾行に使う靴だ。走れる。音がしない。足裏の感覚が地面に近い。

 紐を解いた。左足から。紐を引き抜き、穴に通し直す。締め具合を微調整する。きつすぎれば足が痺れる。緩すぎれば走れない。ちょうどいい締め具合は、三年かけて体が覚えている。

 右足も同じように。紐を解き、通し直し、締める。

 公安にいた頃、張り込みの前夜に靴の手入れをする先輩がいた。理由を聞いたら「足が動けば生きて帰れる」と言った。大袈裟だと思った。今は思わない。

 紐を結び終えた。立ち上がり、三歩歩いた。事務所の中を。

 問題ない。

 デスクに戻り、明日の集合時間を確認した。七時半。旧社屋。電車で一時間半。始発で出れば間に合う。

 紙コップの冷めたコーヒーを飲み干した。苦くもなく、甘くもなく、ただ液体だった。

 来栖の情報が正確かどうかは、明日分かる。正確なら作戦は前に進む。不正確なら、それはそれで情報になる。来栖の信用に関する情報。

 信じるな、記録しろ。

 桐嶋はノートパソコンを閉じた。

           *

 永瀬詩音は自室にいた。遮光カーテンの引かれた部屋。デスクの上にモニターが二台。ノートパソコンが一台。壁にはRAFTの瓦解に関する相関図がまだ貼ってある。だいぶ剥がしたが、全部は剥がせない。

 モニターの一台にターミナルを開いていた。明日の作戦で使うスクリプトの最終確認。宮田の現住所の周辺の公開情報——自治体の防犯カメラの位置、商業施設の営業時間、交通量の時間帯別データ——を集約して、桐嶋に渡すためのレポートを生成するスクリプト。

 コードを上から読んだ。一行ずつ。変数名の命名規則。エラーハンドリング。タイムアウトの設定値。

 問題はない。昨日も確認した。今日も確認した。明日の朝もう一度確認するだろう。

 コードの確認が終わると、画面が静かになった。カーソルが点滅している。

 もう一台のモニターにはチャットのウィンドウが開いていた。グループチャット。最後のメッセージは奏からのもので、時刻は午後九時。「明日、よろしくお願いします」。

 返信はしなかった。既読はついている。

 椅子の背にもたれた。天井を見た。天井の染みの数は知っている。十七個。引っ越してから二年間、何度も数えた。

 明日は外に出る。現場には行かないが、リアルタイムで通信を維持する必要がある。通信が途絶えたときの手順も決めてある。

 手順がある。役割がある。

 二年前にはなかった。

 詩音はモニターの電源を切った。部屋が暗くなった。

           *

 御手洗は旧社屋の三階にいた。

 段ボールの数が減っている。半年前は三十箱以上あった。今は十八箱。整理して、必要なものを抜き出し、不要なものを処分した。処分という言葉を使えるようになったのは、最近のことだ。

 窓の外を見ていた。

 一月の夜空。雲は少ない。星が見える。千葉の内房は東京よりも空が暗い。暗い分だけ星が多い。

 コーヒーを淹れた。一人分。豆は八グラム。湯温は八十五度。抽出時間は三分。いつもと同じ。

 マグカップを持って窓辺に立った。

 明日、宮田という人間の家族に会う。宮田は農林水産省の元係長で、調停機構に人生を壊された人間の一人だ。奏の資料によれば、宮田は六年前に埼玉の自宅から姿を消し、家族とも音信不通になっている。

 家族との再接触を支援する。それが明日の作戦の核だ。

 御手洗の役割は、宮田の家族への接触経路を確保すること。旧知の記者が宮田の妻の勤務先を突き止めている。名前を聞けば顔が浮かぶような距離ではない。ジャーナリストの人脈とは、顔を知っているかどうかではなく、二手先の情報に辿り着けるかどうかの問題だ。

 コーヒーが冷めていく。

 三十年前、記事を出さなかった。家族を守るために。

 明日、別の家族を繋ぎ直す手伝いをする。

 因果が合っているかどうかは分からない。因果を合わせるために動いているわけでもない。ただ、段ボールの中で眠っていた記事の重さが、少しだけ形を変えた気がする。

 マグカップを流し台に持っていった。洗った。棚に戻した。

           *

 来栖朔はアパートの部屋にいた。

 何もしていなかった。

 テーブルの上に何もない。椅子に座っている。テレビはついていない。本も開いていない。携帯電話は充電器に挿してある。画面は暗い。

 壁に時計がかかっている。秒針が動いている。その音だけが部屋にある。

 午後十一時二十三分。

 明日の作戦で、来栖の役割は機構側の反応予測だ。宮田の周辺に機構の監視がどう配置されているか。接触した場合にどう動くか。来栖はかつて監視を配置する側にいた。配置の論理を知っている。

 だから予測できる。予測が正確であるほど、来栖が機構の内部を知っていることの証明になる。証明は信用に繋がるはずだが、同時に、来栖がかつて何をしていたかの証明にもなる。

 何もしていない。

 準備は終わっている。予測はすでに桐嶋に渡してある。桐嶋はそれを検証し、使える部分だけを使うだろう。信じるな、記録しろ。桐嶋の信条は来栖にも向けられている。

 来栖はそれでいいと思っている。信じてもらう必要はない。使ってもらえればいい。

 時計の秒針が動いている。

 十一時二十四分。

 明日の作戦が成功すれば、宮田の家族は六年ぶりに宮田の消息を知ることができる。来栖がかつて壊した人間のリストに、宮田の名前はない。だが同じ機構が壊した人間だ。同じ手順で。同じ論理で。

 来栖は壁の時計を見ていた。秒針が一周する。六十秒。もう一周する。六十秒。

 何もしていなかった。何もしないということが、来栖にとっては最も難しいことだった。機構にいた頃は常に何かをしていた。手が空くことはなかった。

 手が空いている。

 来栖は椅子に座ったまま、午前零時を待った。零時になったら眠る。それだけを決めて、残りの三十六分を過ごした。