小説置き場
再建屋 梶 誠一

第44話「人脈」

3,033文字 約7分

御手洗は三十年ぶりに名刺入れを開けた。

 革製。茶色。角が擦り切れている。中の名刺は黄ばんでいる。記者時代の名刺ではない。取材先から受け取った名刺だ。御手洗は自分の名刺を配る習慣がなかった。名前は口頭で伝える。紙を渡すのは証拠を残すことだと、先輩記者に教わった。

 名刺入れの中に、百二十三枚。数えたことがある。十年前に一度、整理しようとして数えた。整理はしなかった。捨てる基準がなかった。

 今日、基準ができた。

 奏から依頼が来ている。七つのコンサルティング会社について、業界内での評判を聞いてほしい。登記情報とウェブサイトの分析は詩音がやった。法人の実態調査は桐嶋が外部に依頼した。残っているのは、人間の口から出る情報だ。

 人間の口から出る情報は、記者の領域だ。

 御手洗は名刺を一枚ずつ確認した。名前と肩書きと日付。日付は御手洗が自分で裏に書いたもの。いつ会ったか。どこで会ったか。

 七社のうち一社、リージェント経営研究所の所在地は千代田区神田。神田は出版社と編集プロダクションが密集している地域だ。記者時代、御手洗は神田に毎週通っていた。

 名刺の中から三枚を抜いた。

 一枚目。田村恭一。『週刊経世』編集部。記入日は二〇〇六年。二十年前。田村は当時三十代の経済部記者で、御手洗とは金融取材で何度か情報を交換した。田村はまだ現役のはずだ。『週刊経世』は廃刊していない。

 二枚目。杉浦真弓。元『月刊ビジネスレポート』副編集長。記入日は二〇一一年。杉浦は二年前に退職したと風の噂で聞いた。今は何をしているか分からない。だが杉浦は経営コンサルティング業界に詳しかった。コンサル会社の取材を長くやっていた。

 三枚目。松永洋介。フリーランスの経済ジャーナリスト。記入日は二〇一四年。松永は税理士の資格も持っていて、法人の財務分析を専門にしていた。コンサル会社の実態について、松永なら何か知っているかもしれない。

 三人に電話する。

 御手洗はコーヒーを淹れた。一人分。豆を二十四グラム。湯温は八十五度。手が覚えている。

 コーヒーを飲みながら、電話の順序を決めた。

 最初に田村。現役記者だ。社の電話番号は名刺に書いてある。二十年前の番号だが、『週刊経世』の代表番号は変わっていないだろう。

 電話をかけた。

 「はい、『週刊経世』編集部です」

 「田村恭一さんはいらっしゃいますか。御手洗と申します」

 「御手洗様。少々お待ちください」

 三十秒。保留音。

 「田村です」

 「御手洗です。『公器』の」

 五秒の沈黙。

 「御手洗さん。まさか。御手洗新さんですか」

 「覚えていてくれたか」

 「覚えていますよ。二〇〇六年の不動産ファンドの取材で——いや、それより、お元気ですか。『公器』の廃刊以来、お名前を聞いていなくて」

 「元気だ。少し聞きたいことがある」

 「何ですか」

 「経営コンサルティング会社について。小さな事務所。都内に複数ある。名前を言う」

 七社の名前を読み上げた。田村は黙って聞いていた。

 「聞いたことがあるのは」

 「……一つだけ。クロス業務コンサルティング。うちの広告営業部に、二年前に広告出稿の問い合わせがあった。金額は小さかった。八分の一ページ。記事体広告ではなく純広告。結局、出稿はなかったと思う。営業が断ったか、先方が取り下げたか。覚えていない」

 「その問い合わせの担当者名は分かるか」

 「分からない。営業に聞けば出てくるかもしれないが。なぜそんなことを」

 「調べごとだ。詳しくは言えない」

 「御手洗さんらしい。了解しました。営業に確認してみます。何か分かったら連絡します」

 「ありがとう。連絡先は——」

 御手洗は旧社屋の固定電話の番号を伝えた。携帯電話の番号は教えなかった。固定電話なら、通話記録が残っても旧社屋の住所に紐づくだけだ。

 電話を切った。

 次に杉浦。携帯電話の番号が名刺にある。十五年前の番号。変わっている可能性が高い。

 かけた。

 「この電話番号は現在使われておりません」

 想定通り。

 御手洗は別の方法を取った。杉浦が最後に勤めていた『月刊ビジネスレポート』の発行元に電話した。出版社の代表番号。

 「杉浦真弓さんは現在どちらにいらっしゃいますか。以前同じ業界にいた者です」

 「杉浦は二年前に退職しております。現在の連絡先は——少々お待ちください」

 一分後。

 「申し訳ありません。個人情報のため、お伝えすることができません」

 「分かりました。では、杉浦さんに御手洗から連絡があったとお伝えいただけますか。電話番号を申し上げます」

 固定電話の番号を伝えた。伝言を頼んだ。杉浦が折り返してくるかどうかは分からない。

 三人目。松永。フリーランスだから、連絡先は自分のものだ。名刺の携帯番号にかけた。

 二回のコール。

 「松永です」

 「御手洗です。『公器』の元記者の」

 「ああ、御手洗さん。久しぶりですね」

 「十二年ぶりだ。松永さん。コンサルティング会社について聞きたい。小規模な事務所で、設立が二〇一五年から二〇二〇年の間。都内に複数ある。名前を七つ言う」

 七社を読み上げた。松永は一社ずつ復唱した。

 「七社。聞いたことがあるかって」

 「ある」

 松永が三秒黙った。

 「リージェント経営研究所。名前だけは聞いたことがあります。去年、ある企業の第三者委員会の調査で、取引先リストにこの名前が出てきた。クライアントが支払っていたコンサルフィーの中に、リージェントへの月次支払いがあった。金額は——たしか百四十万前後だったと思います」

 百四十万。来栖が言った金額帯——百二十万から百八十万——の範囲内だ。

 「そのクライアントの業種は」

 「建設関連です。中堅のゼネコン。名前は言えません。守秘義務がある」

 「分かる。もう一つ。その月次支払い、成果物はあったか。報告書とか、提案書とか」

 「……それが、なかったんです。支払いはあるのに、対応する成果物が見当たらない。第三者委員会の報告書にも『成果物の確認ができなかった』と書いた。でも、それ以上は追わなかった。調査のスコープ外だったから」

 成果物のない月次支払い。百四十万。コンサルフィーの名目で、実態のない送金。

 「松永さん。その第三者委員会の報告書は公開されているか」

 「クライアント企業のウェブサイトに概要版が出ています。詳細版は非公開。ただ、概要版にもリージェントの名前は出ていない。取引先名は匿名化されている」

 「匿名化されていても、御手洗が知っている意味はあるか」

 「あります。概要版の中の『取引先X』がリージェントだと、僕が今お伝えしたので」

 御手洗はメモを取った。紙に。ペンで。

 「ありがとう、松永さん」

 「御手洗さん。何を調べているんですか」

 「段ボールの整理だ」

 「段ボール?」

 「三十年分のな。まだ終わっていない」

 電話を切った。

 御手洗はコーヒーを飲んだ。冷めていた。淹れ直す気にはならなかった。

 メモを見た。三人への電話で得た情報。田村からはクロスの広告出稿問い合わせ。松永からはリージェントへの実態なき月次支払い。杉浦からはまだ返事がない。

 三十年の人脈。一本の電話で情報が出てくる。これが記者の蓄積だ。

 名刺入れを閉じた。革が軋んだ。

 百二十三枚のうち、今日使ったのは三枚。残り百二十枚の中に、まだ使える人間がいるかもしれない。

 窓の外に冬の海が見えている。二月の午後の光は弱い。水平線が霞んでいる。

 固定電話が鳴った。

 「御手洗さんですか。杉浦です。杉浦真弓。伝言をいただいたと」

 折り返しが来た。

 御手洗はコーヒーカップを置いて、受話器を握り直した。

 三十年の人脈が、動き始めている。