桐嶋は来栖を信用していない。
信用しないことは、使わないことを意味しない。公安の世界では、信用できない情報源を使い続けることが日常だった。情報の信頼性と情報源の信頼性は別の変数であり、前者が高ければ後者が低くても使う。ただし、常に裏取りをする。裏取りが取れなければ棚上げする。棚上げした情報は捨てない。後で意味が変わることがある。
二月十二日。桐嶋は法務局のオンライン登記情報提供サービスにアクセスした。旧社屋の一階、長机の端。画面を自分だけに向けた。隣に座る人間がいないことを確認してから、検索を開始した。
来栖が出した条件。コンサルティング会社。二〇一〇年代後半設立。目的欄に経営助言、業務改善、組織再編のいずれかを含む。所在地は都内。
条件を入れた。検索結果が返ってきた。
百四十七件。
詩音のスクレイピングで前日に抽出した候補リストは百二十三件だった。差異が出ている。法務局のデータベースと商業登記の電子化範囲の違いだろう。二十四件の差を確認する必要がある。
桐嶋は百四十七件のリストをプリントアウトした。紙に出す。デジタルの画面では全体を一望できない。紙の上で、ペンで印をつける。これが桐嶋のやり方だった。
最初の絞り込み。資本金。来栖は資本金について何も言わなかった。だが桐嶋は知っている——ペーパーカンパニーの資本金は最低限に設定される。百万円。合同会社なら一円でも設立できるが、取引先に対する信用のために百万円前後にする。
百四十七件のうち、資本金百万円以下のものを丸で囲った。六十三件。
次の絞り込み。代表者の住所。登記上の代表者住所が、法人所在地と同一または近接しているもの。ペーパーカンパニーの代表者は実態がない。住所はバーチャルオフィスか、法人の登記住所と同じレンタルオフィスであることが多い。
六十三件を一件ずつ確認した。代表者住所が法人所在地と同一のもの。十九件。
十九件。
来栖は「法人を三つ経由して指示を出す」と言った。三社がセットになっている。十九件の中に三社のセットがあるなら、設立時期が近く、所在地が同じビルか近隣のビルにある法人が三つ存在するはずだ。
桐嶋はペンで十九件の設立日と所在地を書き出した。A4の紙一枚に、十九行。
目が止まった。
三件。設立日が二〇一七年の五月、六月、八月。所在地は千代田区神田。番地が連続していないが、同じ丁目。代表者名は三人とも異なる。法人名は「リージェント経営研究所」「クロス業務コンサルティング」「アーチ組織設計事務所」。
経営研究、業務コンサルティング、組織設計。来栖が言った三業種と一対一で対応する。
偶然ではない。
桐嶋は紙を裏返し、三法人の情報を書き直した。設立日、所在地、代表者名、目的欄の全文。
ここからが検証だ。
来栖の情報が正しいなら、この三法人がAの指示伝達経路である。だが来栖の情報が偽であるなら——この三法人は囮だ。桐嶋たちを誘い込むための偽の経路。
桐嶋は来栖の情報を信用していない。だから、来栖が示した条件とは別の方向から、この三法人の実態を確認する必要がある。
スマートフォンを手に取った。連絡先を開いた。公安時代の同僚ではない。退職後に接触した民間の調査会社の人間。名前は南。元警視庁の情報収集部門にいた男で、今は企業調査を生業にしている。桐嶋とは利害関係がない。金で動く。
電話をかけた。三回のコールで出た。
「桐嶋さん。珍しい」
「三社の登記情報を確認してほしい。実態調査。法人名を言う」
「報酬は」
「一社三万。三社で九万。現金で」
「先払いで」
「半額先、半額後」
「了解。言ってくれ」
三社の法人名と所在地を伝えた。南は復唱した。正確に。
「何を調べればいい」
「三つ。一、登記上の所在地に実態があるか。郵便物の受け取り状況。看板の有無。二、代表者が実在するか。住民票の所在地確認まではしなくていい。SNS、名刺、業界名簿で名前が出るかどうか。三、この三社に請求書を出している取引先、または請求書を受け取っている取引先の有無」
「三番目は時間がかかる」
「分かっている。一と二を先に。三は後でいい」
「期限は」
「一と二は三日。三は一週間」
「やる」
電話を切った。
桐嶋は紙を畳み、胸ポケットにしまった。
来栖の情報を、来栖とは無関係な経路で検証する。これが基本だ。情報源がどれほど詳しい内部知識を持っていても、その知識が本物かどうかは外部検証でしか確認できない。
公安時代、桐嶋は協力者の情報を三重に検証していた。協力者自身の証言、物的証拠、第三者の傍証。三つが揃って初めて「使える情報」になる。二つなら「保留」。一つなら「疑わしい」。
来栖の情報は今、一つ目の段階にすぎない。
旧社屋の二階で足音がした。御手洗が動いている。一階の作業場には桐嶋一人だった。奏は湊裏区の自宅で翻訳の仕事をしている。詩音は杉並のアパートで法人リストの精査を続けている。来栖は——来栖の居場所を、桐嶋は把握している。
把握している。
来栖が旧社屋を出た後、桐嶋は来栖の行動を追跡していた。尾行ではない。来栖が使う駅の防犯カメラの位置、乗る電車の時間帯、降りる駅の改札の方向。公安の技術で、接触せずに行動パターンを把握する方法はいくつもある。
来栖は館山駅から内房線に乗り、千葉駅で総武線に乗り換え、東京方面に向かっている。降車駅は神田。
神田。
三法人の所在地と同じ駅だ。
偶然か。来栖が神田に別の用事があるのか。それとも——来栖は桐嶋たちが見つけるはずの三法人の場所に、自分から通っているのか。
桐嶋は胸ポケットの紙に手を触れた。
信用しない。だが使う。使いながら、監視する。
窓の外は二月の午後だった。海が見える。冬の海は色が暗い。灰色がかった青。水平線の上に雲が低く垂れている。
南からの報告を待つ。三日。
それまでの間、桐嶋は来栖の行動を記録し続ける。手帳に書く。デジタルには残さない。紙だけに。紙は電子的に盗まれない。
石油ストーブの火が揺れた。灯油の残量を確認した。あと三時間分。
桐嶋は紙を広げ直し、三法人の情報をもう一度読んだ。リージェント経営研究所。クロス業務コンサルティング。アーチ組織設計事務所。
名前に統一性がない。意図的にバラバラにしている。だが設立の間隔が短すぎる。五月、六月、八月。三ヶ月で三社。一人の人間が三社を設立するなら、この間隔は自然だ。代理人を使うなら、もっと短くできる。
三ヶ月。Aが自分で設立した可能性がある。自分で司法書士に依頼し、自分で定款を書き、自分で設立手続きをした。Aは手を抜かない人間か。あるいは、他人に任せられない事情がある人間か。
来栖が言った。「Aは慎重な人間です。手続きを他人に委ねない」
来栖の言葉を思い出している自分に気づいた。来栖の情報を無意識に参照している。
桐嶋は手帳を閉じた。
信用しない。検証する。検証が済むまで、来栖の言葉は仮説にすぎない。
仮説を仮説のまま保持する忍耐。それが公安で身につけた最も重要な技術だった。