泳がされていた。
その事実を、私は二月の夜に手帳へ書いた。青いインクで、事実だけを。感情は書かない。
「調停機構は我々の活動を認知していた。認知した上で、放置していた。放置の期間は最低三週間。来栖の証言による」
三週間。私たちが来栖の情報を元に動いていた三週間、機構はそれを見ていた。潰さなかった。潰す価値がないと判断したか、あるいは——泳がせることに価値を見出したか。
後者だろう。帳簿の世界では、債務者に返済能力を持たせてから回収する。泳がせるのは、泳がせた先に利益がある場合に限る。機構にとっての利益とは何か。私たちの動きを通じて、機構内部の情報漏洩源——つまり来栖を——特定することか。あるいは、私たちが接触する先を追うことで、機構の把握していない反対勢力を炙り出すことか。
旧社屋の一階。印刷機の残骸はすでに壁際に寄せてある。中央に長机を二つ並べた作業場。蛍光灯が白い。暖房は石油ストーブ一台。灯油の匂いが薄く漂っている。
桐嶋が窓際に立っている。腕を組んだまま、三分間何も言っていない。
詩音はノートパソコンの前にいる。画面を自分だけに向けている。いつもの配置。
御手洗は机の端に座り、コーヒーを飲んでいた。自分で淹れた。三人分ではなく、一人分。今日の御手洗は三人分を淹れなかった。それが何を意味するか、私には分からなかった。後で桐嶋が教えてくれるかもしれない。
来栖は部屋の隅にいた。椅子に座らず、壁に背を預けて立っている。いつもそうだ。座らない。出口に近い場所を選ぶ。
五人がいる。
「確認します」
私は手帳を閉じて、全員の顔を見た。来栖の顔だけが、こちらを見返さなかった。
「来栖さんの情報によれば、機構は三層構造です。上層部、中間層の執行部、末端の実行者。私たちが直接触れられるのは中間層まで。上層部は接触すら困難」
桐嶋が口を開いた。
「中間層の中でも、末端。執行部の下端にいる人間を一人特定する。そこから構造を遡る」
「はい。来栖さんが示した名前が三つあります。そのうちの一つ、仮にAとします。Aは執行部の中で、実行指示の伝達を担当する人物です」
来栖が壁から背を離した。
「Aは実名で言えば——」
「実名はまだ出さないでください」
私の声が来栖の言葉を遮った。来栖は口を閉じた。表情は変わらない。この男の表情が変わるのを、私はまだ見たことがない。
桐嶋が来栖を見た。
「なぜ実名を出させない」
「情報の検証が済んでいないからです。来栖さんの情報を、来栖さんの口から出す前に、独立した経路で確認したい。名前を先に聞けば、確認作業にバイアスがかかる」
桐嶋が三秒黙った。頷いた。
「合理的だ。だが時間がかかる」
「時間をかけてでも、独立した検証が必要です。来栖さんの情報が正しいとしても、正しいことを私たちが自分の手で確認しなければ、その情報に依存する構造ができる。依存は脆弱性です」
桐嶋が腕を組み直した。反論はしなかった。
御手洗がコーヒーカップをテーブルに置いた。
「つまり、来栖さんの情報を信用していないということだ」
私は御手洗を見た。御手洗は来栖を見ていなかった。コーヒーの表面を見ていた。
「信用の問題ではありません。検証の問題です」
「同じことだ。記者の世界では、裏取りが済んでいない情報は信用していない情報と同義だ」
来栖が声を出した。低い声。抑揚がない。
「御手洗さんの言う通りです。信用しなくていい。ただ、Aの特定を急いでください。機構が泳がせているのは、こちらの動きが遅い間だけです。動きが速くなれば、対応が変わる」
「対応というのは」
「処理です」
部屋の温度が変わったように感じた。ストーブの火は同じ強さで燃えている。灯油の匂いも変わらない。だが空気が少しだけ重くなった。
来栖の言葉が持つ重さは、この男が処理する側にいた人間だという事実から来ている。処理の具体的な手順を知っている人間が「処理」という単語を使うとき、その単語には私たちには見えない厚みがある。
「来栖さん。Aの特定に使える情報を、構造的なものだけ出してください。名前ではなく、行動パターン。所属法人の類型。活動の時間帯。連絡手段の種類」
来栖が考えた。五秒。
「Aは法人を三つ経由して指示を出す。指示の形式は請求書。請求書の金額が指示の内容を暗号化している。法人はコンサルティング会社。設立年は二〇一〇年代後半。所在地は都内。代表者名は実在する人物だが、実態はない」
詩音のキーボードを叩く音が聞こえた。速い。来栖の言葉を記録している。
「コンサル会社の業種は」
「経営助言。業務改善。組織再編。この三つのどれかを定款に含む」
私はメモ帳に書いた。法人三社。コンサル。二〇一〇年代後半設立。経営助言、業務改善、組織再編。
「請求書の金額帯は」
来栖が即答した。この男が即答するとき、その情報は確度が高い。桐嶋が以前そう言っていた。考えてから答える情報より、反射で出る情報のほうが加工されていない、と。
「百万円台。具体的には百二十万から百八十万の間。消費税込み」
帳簿の世界だ。私の領域。百二十万から百八十万。請求書として不自然ではない金額帯。月次のコンサルフィーとして通る。だが金額の端数に指示が埋め込まれているとすれば、百二十三万四千五百六十七円のような数字の中に、意味が隠れている。
「桐嶋さん。この条件で法人を絞り込めますか」
「登記情報から引ける。設立年、業種、所在地。条件が三つあれば、候補は百社以下に絞れるだろう。だが百社を一つずつ当たるには時間がかかる」
「詩音さん」
詩音がキーボードを止めた。画面をこちらに向けた。テキストが表示されている。
『法人登記のオンライン検索で、条件に合致する法人を抽出できます。設立年、目的欄のキーワード、所在地。三条件のAND検索。半日あれば候補リストを出せます』
「お願いします。候補が出たら、私が請求書のパターンを読みます」
帳簿を読むのは私の仕事だ。
来栖が壁に背を戻した。出口に近い位置。
「もう一つ」来栖が言った。「Aの特定を急ぐ理由があります。機構が泳がせを止める条件は二つ。一つは、我々が中間層に触れたとき。もう一つは——」
「もう一つは」
「私がここにいることが、機構に知られたとき」
五人の中に沈黙が落ちた。ストーブの火が揺れた。窓の外で風が吹いたのだろう。
来栖の存在そのものがリスクであること。それは全員が知っている。知っていて、言語化しなかった。来栖が自分で言った。この男は自分の立場を正確に理解している。理解した上で、ここにいる。その事実が、来栖という人間の読みにくさを際立たせていた。
桐嶋が来栖を見ていた。元公安の目。情報提供者を査定する目だ。信じるか信じないかではなく、どこまで使えるかを測る目。御手洗は来栖を見ていなかった。記者の矜持がそうさせている。裏が取れない情報源を直視しない。
私は手帳を開いた。今日の記録。
「Aの特定作業開始。来栖情報の独立検証が前提。全員の精度への疑念を記録する」
疑念。手帳に書くのは事実だけだ。だが疑念もまた事実だった。