小説置き場
再建屋 梶 誠一

第40話「帳簿」

2,774文字 約6分

一月六日。午後四時。旧社屋の一階。

 テーブルの上に帳簿を開いた。百均のB5ノート。表紙には「経理」とだけ書いてある。一ページ目に日付と項目名の見出しを書いた。日付。摘要。収入。支出。残高。備考。

 裏金の処理方法は、昨夜のうちに決めていた。

 最初の行を書いた。

 日付:2026年1月6日。摘要:活動資金受入(来栖朔より)。収入:8,400,000円。支出:——。残高:8,400,000円。備考:調停機構現場部の裁量枠残高。借入金として計上。返済先未定。

 借入金。

 この処理を選んだ理由は単純だった。機構の金を「もらった」とは書けない。贈与ではない。来栖が寄付したのでもない。来栖が持ち出した機構の資金を、私たちが預かっている。預かっている以上、それは借りている金だ。借りている金には返済義務がある。返済先は調停機構。

 矛盾している。敵の金を借りて、敵と戦う。返済先は敵。

 矛盾していても、帳簿には正確に書く。帳簿は事実を記録するものであって、矛盾を解消するものではない。

 桐嶋が来たのは午後五時だった。

 コートを脱がずにテーブルの前に立った。帳簿を見た。最初の行を読んだ。

「借入金」

「はい」

「返済先未定」

「はい」

「返済先は機構だと、本気で思っているのか」

「帳簿上の処理です。実際に返済するかどうかは別の問題です」

「帳簿上の処理。お前がいつも言っていることだな。記録しろと。正確に記録しろと」

「はい」

「なら正確に記録しろ。これは盗んだ金だ」

 私はペンを止めた。

「盗んだのは来栖さんです。私たちではない」

「来栖が盗んだ金を、お前が使う。共犯だ」

「法的には窃盗の定義に該当しません。来栖さん名義の口座にある資金を、来栖さん自身が提供した。名義人による任意の資金移動です」

「法律の話をしているんじゃない」

 桐嶋の声が変わった。

 初めて聞く声だった。低い。静かだが、温度がない。怒りが表に出る声ではなく、怒りが奥に押し込まれて圧縮された声。

「黛。お前はルールを作った。調停機構と同じ手は使わない。匿名の情報操作はしない。帳簿は公開する。三つだ。三つ目の帳簿。その帳簿の一行目が機構の裏金だ」

「だから記録しています」

「記録すれば何を使ってもいいのか」

 私は桐嶋の目を見た。

 怒っている。本当に怒っている。この四ヶ月間、桐嶋は一度も怒らなかった。保留と言い、黙り、反対意見を述べ、議論し、最終的に判断を委ねた。だが怒りはなかった。

 今、怒っている。

「桐嶋さん。私が作ったルールは、手段に関するものです。機構の金を使うことは手段の問題ではありません。資源の問題です」

「資源。人の人生を壊して得た金を、資源と呼ぶのか」

 その一言で、私の手が止まった。

 人の人生を壊して得た金。来栖の裁量枠。あの金の出どころは機構の運営費であり、運営費の原資は不明だが、来栖がその金を使って四十二件の処理を実行したことは事実だった。裁量枠の残高は、使い残した処理費用。壊しきれなかった分の金。

 桐嶋が帳簿を見た。一行目。8,400,000円。

「俺は保留と言った。保留の間に、お前は帳簿をつけた」

「保留は反対ではありません」

「保留は賛成でもない。合議で決めると言ったのはお前だ」

 正しかった。桐嶋の指摘は正しかった。

 私は合議を提案した。来栖の合流について。裏金の使用について。合議の結果は賛成一、保留一、沈黙一。全会一致でも多数決でもない状態で、私は帳簿をつけた。

「すみません」

 声に出したのは初めてだった。桐嶋に対して謝罪の言葉を使ったのは。

 桐嶋は何も言わなかった。コートのまま、旧社屋を出ていった。

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 その夜。午前一時。

 私は旧社屋に残っていた。二階の御手洗の部屋は暗い。詩音は自宅。桐嶋は帰った。一人だった。

 帳簿を閉じ、別のノートを開いた。活動記録。これまでの全ての行動をまとめたもの。

 六人目——河野の再建案件を見直していた。河野への防御手順書の郵送。御手洗の名前を差出人にした封筒。河野が開封し、連絡をくれ、二回の面談を経て、現在の雇用先に防御策を伝えた。

 その過程で、河野の現在の雇用先の情報が必要だった。河野の転居先は不明で、勤務先は非公開。詩音が調べた。公開情報を組み合わせて、河野の勤務先を特定した。

 特定の起点は、ある求人サイトだった。

 私はノートのページをめくった。詩音が書いた調査報告書のコピー。求人サイトの企業ページ。河野が勤務している社会保険労務士事務所。その事務所が求人を出していた時期と、河野が退職した時期が近い。

 だが、今夜改めて見直して、気づいた。

 求人サイトの情報を詩音が見つけたのは、検索の三ページ目だった。通常、詩音の検索は二十ページ以上掘る。三ページ目で見つかるのは早すぎる。

 求人サイトのページを遡った。ノートパソコンでアクセスした。求人情報の掲載日。二〇二五年十一月十五日。河野が転居した推定時期の二週間後。

 掲載元は求人代行サービス。代行サービスの運営会社を調べた。登記情報は公開されている。法務局のオンラインで取得可能。

 運営会社の所在地。東京都千代田区永田町一丁目。

 永田町。

 代行サービスの設立日。二〇一七年。設立時の役員名。三人。そのうち一人が、詩音が取得したメタデータのファイルパスに含まれていた名前と一致した。

 「t.hoshino」。

 2022年に機構のクラウドストレージを管理していた名前。星野。

 求人サイトの情報は、機構側から用意されていた。河野の勤務先を見つけやすいように。私たちが河野に接触できるように。

 泳がされていた。

 最初から。

 六人目の再建案件は、私たちの実績ではなかった。機構が用意した実績だった。

 私は帳簿を開いた。今日書いた一行目。8,400,000円。借入金。

 この金も、同じなのか。

 機構が私たちに使わせるために、来栖を通じて渡した金なのか。

 分からない。帳簿は事実を記録するが、事実の裏にある意図までは記録できない。

 ペンを握った。二行目を書いた。

 日付:2026年1月7日。摘要:情報ルート検証(河野案件)。収入:——。支出:——。残高:8,400,000円。備考:六人目の再建に使用した情報ルートが機構側関連企業から提供されていた可能性。要検証。

 午前二時。旧社屋は静かだった。印刷機の残骸が闇の中に佇んでいる。

 私はコーヒーを淹れなかった。粉が切れていた。

 窓の外は暗い。一月の夜。海が近いはずだが、波の音は聞こえない。

 帳簿を閉じた。閉じてから、もう一度開いた。一行目を読み返した。

 借入金。返済先未定。

 桐嶋は正しかった。帳簿に書けば何を使ってもいいわけではない。

 だが、帳簿に書かなければ、何が起きたかすら分からなくなる。

 泳がされていたことに気づけたのも、記録があったからだ。

 記録することの意味を、私はまだ信じている。信じているが、信じていることが正しいかどうかは、帳簿には書けない。