小説置き場
再建屋 梶 誠一

第4話「調査屋」

2,090文字 約5分

奏は名刺を探すことにした。宮田家の隣人は「名刺をいただいたが捨てた」と言った。だが名前の一部は覚えているかもしれない。奏は翌週、もう一度埼玉を訪ねた。

 隣人の女性は二度目の訪問に少し驚いた顔をしたが、お茶を出してくれた。ほうじ茶。温かかった。

「あの名刺のことなんですけど、何か覚えていらっしゃいませんか。会社名でも、名字の一文字でも」

「うーん……。名字は、なんだったかしら。木がつく名前だった気がするんだけど」

「木偏の」

「ええ。桐、とか、柏、とか。そういう漢字」

「住所や電話番号は」

「新宿の方だった気がします。ビルの名前が書いてあって、ちょっと古そうだなって思ったのは覚えてるわ」

 奏は礼を言って辞去した。

 帰りの電車の中で、スマートフォンを開いた。

 「新宿 身辺調査 桐」で検索する。結果は多くない。身辺調査を公に謳っている事業者は限られる。探偵業法に基づく届出がある事業者に限れば、さらに絞れる。

 三件。

 そのうち一件。新宿区歌舞伎町の雑居ビル。「桐嶋探偵事務所」。ウェブサイトはなく、電話帳の登録情報だけが見つかった。業種は「身辺調査業」。

 奏は翌日の午後、新宿に向かった。

 歌舞伎町の裏通り。雑居ビルの四階。エレベーターはなく、狭い階段を上がる。階段の壁に落書きがある。踊り場に吸殻が三本落ちている。

 四階の廊下には三つのドアがある。一つ目はマッサージ店。二つ目は空き室。三つ目に、プラスチックの表札が貼ってある。

 「桐嶋調査事務所」

 名刺の表記と微妙に違う。「探偵」ではなく「調査」。探偵業の届出は出しているが、看板では「調査」を使っている。客を選んでいるのかもしれない。

 ドアをノックした。

 三秒。返事がなかった。もう一度ノックしようとしたとき、ドアが開いた。

 男。四十代半ば。短髪。痩身。ジャケットにジーンズ。靴はスニーカー。顔は彫りが深く、目の下に疲労の影がある。

 隣人の女性の証言、四十くらい、ジャケットにジーンズ、と一致した。

 男は奏を見た。二秒。それから、ドアを少し広く開けた。

「何の用だ」

「宮田という人物について調べています」

 男の目が動いた。動き方が特殊だった。奏の顔を見ているが、同時に奏の背後の廊下と、奏の手元、武器を持っていないことを確認している。公安式の視線配分。

「あんた、何者だ」

 三秒の間があった。

「黛奏です。元国税局調査官。今は翻訳の仕事をしています」

 嘘は混ぜなかった。この相手は目を合わせて嘘をつくタイプだが、今は嘘をついていない。

 男は五秒ほど奏を見つめた。それから、振り返って事務所の中に入った。ドアは開いたままだった。入れ、という意味だろう。

 事務所は狭かった。六畳ほど。机が一つ。椅子が二つ。棚にファイルが並んでいる。窓はブラインドが下りている。灰皿があるが、煙は出ていない。禁煙にしたのが最近らしく、灰皿を捨てる踏ん切りがついていない。

 男は机の向こうに座った。奏はもう一つの椅子に座った。

「桐嶋」男が名乗った。苗字だけ。「宮田を知ってるということは、あんたも調停機構に?」

 奏の手が、膝の上で止まった。

 調停機構。

 この男は名前を知っている。

「……壊されました」

「いつ」

「二年前」

「手口は」

「口座への不審な入金。上司の態度の変化。母親の職場への匿名連絡。証拠の捏造。懲戒免職」

 桐嶋は黙って聞いた。途中で頷きもしなかった。聞き慣れている。この手口を。

「俺は七年前だ。公安にいた」

 公安。

 やはり。

「機構の存在に気づいた時点でハメられた。汚職刑事として処分された。退職金なし。元妻と子どもは実家に帰した。連絡は取ってない」

 桐嶋の声は平坦だった。事実を報告する声。感情を載せる場所が、もう磨り減っているのかもしれない。

「宮田は俺が追っている案件の一つだ」桐嶋は棚からファイルを一つ抜いた。「機構に壊された人間のリストを、俺は独自に作っている。宮田はその中の一人だ。消え方が他と違うから気になっていた」

「消え方が違う?」

「他の連中は壊された後も物理的にはいる。うつ病、失職、孤立、引きこもり。社会的に殺されるが、肉体は残る。宮田だけが——文字通り消えた。家族ごと」

 奏は自分が持ってきた情報を桐嶋に伝えた。更地になった家。引っ越しの挨拶がなかったこと。夜の庭での通話。

 桐嶋はメモを取った。手書き。万年筆。公安時代の癖だろうか。

「あんた、封筒を受け取ったか」

 奏の背筋が伸びた。

「受け取りました」

「俺もだ。三ヶ月前に」

 同じ封筒。

 同じ差出人。

 二人の間の空気が変わった。敵対でも信頼でもない。同じ傷を持つ人間が、互いの傷を確認している時間。

「組もうとは言わない」桐嶋が言った。「信じるな、記録しろ。それが俺の信条だ。だが——情報は交換してもいい」

「こちらも同じ条件で」

 桐嶋は頷いた。

 奏は事務所を出た。階段を降りながら、歌舞伎町の喧騒が耳に戻ってきた。居酒屋の呼び込み。信号のメロディ。雑踏。

 桐嶋徹。元公安。機構に壊された男。奏より五年早く、同じ穴に落とされた人間。

 信じるな、記録しろ。

 奏はその言葉を、帰りの電車の中でメモ帳に書いた。

 信じなくてもいい。記録すればいい。記録は嘘をつかない。

 帳簿と同じだ。