小説置き場
再建屋 梶 誠一

第39話「裏金」

2,689文字 約6分

三回目の来栖訪問には桐嶋が同行した。

 川崎のマンション。三階。インターホンを押す前に桐嶋が廊下を見回した。監視カメラの位置、非常階段の方向、隣室のドアの状態。七秒で確認を終えた。元公安の習慣が、無意識に動く。

 来栖がドアを開けた。前回と同じ白いシャツにグレーのスラックス。整った身なり。桐嶋を見た。

「桐嶋さんですね」

「なぜ分かる」

「調べました。黛さんと同じ封筒を受け取った元公安警察。身辺調査屋。写真はネットに出ていませんが、特徴は推測できます。ジャケットにジーンズ。四十代半ば。刑事の目」

 桐嶋の表情が動かなかった。来栖の表情も動かなかった。二人の間に、三秒の沈黙があった。

「入ってください」

 部屋は前回と同じだった。整理された六畳。ノートパソコン。本棚。来栖は三人分のコーヒーを淹れた。桐嶋はカップに手をつけなかった。

 私はノートを開いた。

「来栖さん。前回の続きです。離脱時の状況を詳しく聞かせてください」

「どの部分からですか」

「離脱の手順。機構を抜ける時に、何をしたか」

 来栖は椅子の背にもたれた。天井を見た。

「機構には正式な離脱手続きはありません。入る時に契約書を書くわけでもない。辞める時に退職届を出すわけでもない。ただ、連絡を断つ。報告を止める。次の案件を受けない。それだけです」

「それだけで許されるんですか」

「許されません。通常は、離脱を試みた人間に対して処理が行われます。僕たちがターゲットにしていたのと同じ手口で」

「あなたには処理が来なかった」

「来ませんでした。理由は分かりません。僕の処理件数が多かったから、報復のコストが高いと判断されたのかもしれない。あるいは、泳がせているだけかもしれない」

 桐嶋が初めて口を開いた。

「泳がせている。そう自分でも思っているわけだ」

「可能性の一つとして、はい」

「可能性の一つ。便利な言葉だな」

 来栖は桐嶋を見た。視線を受け止めて、逸らさなかった。

「桐嶋さん。僕が嘘をついているかどうか、見抜ける自信はありますか」

「ない。だから信用しない」

「それでいいと思います」

 私は話を戻した。

「来栖さん。離脱の際に、機構から何かを持ち出しましたか」

 三秒の間。来栖がコーヒーを一口飲んだ。それからカップをテーブルに置いた。置き方が丁寧だった。音を立てなかった。

「持ち出しました」

「何を」

「資金です」

 桐嶋の体が微かに動いた。椅子の上で重心が前に移った。

「機構の現場部には、報告不要の活動資金がありました。案件ごとに割り当てられる経費とは別に、クリーナー個人に紐づいた裁量枠。領収書不要。報告義務なし。使途は自由。ターゲットの周辺に接近する際の交際費や、偽装用の消耗品購入に使います」

「金額は」

「僕の裁量枠の残高は、離脱時に八百四十万円でした」

 私はペンを止めた。数字を確認した。八百四十万円。私の翻訳収入の六年分以上。

「それを持ち出した」

「口座ごと。裁量枠は個人名義の口座で管理されていました。僕の名義です。口座番号は機構の管理台帳にありますが、入出金の操作権限は名義人にしかない。僕が連絡を断っただけで、口座はそのまま僕の管理下にある」

「凍結されていないんですか」

「されていません。僕の口座を凍結するには、機構が銀行に介入する必要があります。介入すれば痕跡が残る。機構は痕跡を残さない組織です。八百四十万円の回収のために痕跡を残すコストは、放置するコストを上回る。そう判断されたんだと思います」

 桐嶋が立ち上がった。窓際に移動した。外を見た。何かを確認しているのではなく、来栖から視線を外す必要があったのだと、私は思った。桐嶋の背中は硬かった。ジャケットの肩が持ち上がっている。緊張している。八百四十万という数字が、この部屋の空気を変えた。

 来栖が私を見た。

「黛さん。この資金を、あなたたちの活動に使ってください」

「活動資金として」

「はい。僕が持っていても意味がない。逃走資金にするなら、とうに使っています」

「機構の金ですよ」

「元は、はい。でも今は宙に浮いている金です。誰のものでもない」

 桐嶋が振り返った。

「黛。この話は持ち帰れ。ここで決めるな」

「分かっています」

 私は手帳に書いた。裏金。八百四十万円。個人名義口座。凍結なし。来栖の裁量枠の残高。使途報告義務なし。

 ペンを止めた。一つ確認すべきことがあった。

「来栖さん。この口座の残高は、離脱後に変動していますか」

「変動していません。一円も動かしていない。確認が必要なら、通帳のコピーを渡します」

「お願いします」

 来栖が立ち上がった。棚の引き出しから封筒を取り出した。中にコピーが入っていた。事前に用意してあった。この男は三回目の訪問で金の話をすることを予測していた。

 帰りのバスの中で、桐嶋は黙っていた。川崎駅に着くまでの十五分間、一言も発しなかった。

 駅の改札の手前で立ち止まった。

「使うつもりか」

 私は駅の雑踏を見た。年始の人混み。コートの群れ。誰もが自分の行き先を持っている。私にも行き先がある。旧社屋に戻って、この金の使い方を決めること。

「使います」

 桐嶋の表情が変わった。

 変わり方は小さかった。眉が動いたのではない。口角が下がったのでもない。目の奥の光が、一段階冷えた。温度が下がった。

「機構の金だぞ」

「だから使います。機構が壊した人間の再建に、機構の金を使う。論理的には筋が通ります」

「論理の問題じゃない」

「では何の問題ですか」

 桐嶋は答えなかった。改札を通った。背中が人混みに消えていった。

 私は改札の前に立ったまま、手帳を開いた。

 桐嶋の反応を記録した。目の奥の温度の変化。声のトーンの低下。「論理の問題じゃない」。

 桐嶋が何に怒っているのか、正確には分からなかった。機構の金を使うことへの嫌悪か。私の判断が速すぎることへの不信か。来栖の申し出を受け入れること自体への反発か。

 三つとも正解かもしれない。三つとも不正解かもしれない。

 帳簿屋は数字を読む。人の感情は数字ではない。

 改札を通った。電車に乗った。窓の外は夕暮れだった。一月の空が橙色に燃えている。

 八百四十万円。

 私たちの活動資金は、今日までゼロだった。桐嶋の事務所の収入と、私の翻訳収入を持ち寄って、交通費と通信費を賄ってきた。御手洗の旧社屋は家賃が月二万円。それすら分担が苦しかった。

 ゼロが八百四十万になる。活動の幅が変わる。遠方への調査、機材の購入、万一の場合の退避費用。これまで断念してきたものの全てが、射程に入る。

 だが桐嶋の背中が語っていた。金額の大きさが問題なのではない。金の出自が問題なのだ。

 その変化がもたらすものが何か、帳簿はまだ教えてくれない。