小説置き場
再建屋 梶 誠一

第38話「合議」

2,626文字 約6分

旧社屋の一階。作戦室と呼んでいるが、実態は元印刷場にテーブルを四つ並べただけの空間だった。

 一月二日。午後二時。四人が集まった。

 奏がテーブルの中央にA5ノートを開いて置いた。来栖朔との面会記録。二回分。日付、会話の要旨、観察事項が手書きで記されている。

「来栖朔を組織に合流させたいと考えています」

 沈黙。三秒。

 桐嶋が先に口を開いた。

「根拠を聞かせてくれ」

「三つあります」

 奏はノートのページをめくった。

「一つ目。来栖は機構の現場部の手口を知っている唯一の人間です。マニュアル、手順、判断基準。私たちが外から推測するしかなかったものを、内側から見ている」

「内側を知っているのと、正確に伝えるのは別だ」

「はい。だから二つ目。来栖の証言は検証可能な形式で引き出せます。彼は案件番号を覚えていました。KRS-019、028、031。これは詩音さんがメタデータから取得した番号と一致します。少なくとも過去の案件については、嘘をつく必要がない」

 桐嶋は腕を組んだ。顔は動かない。

「三つ目。来栖自身が逃げなかった。二回訪問して、二回とも同じ場所にいた。荷物をまとめた形跡もない。逃げる人間は一回目の訪問で消えます」

「逃げないのは、逃げる必要がないからだ。機構が泳がせている可能性がある」

「その可能性はあります」

「あるなら、合流させるのは危険だ」

「危険です。ですが、機構の内部情報なしに先へは進めません」

 桐嶋は窓の外を見た。冬の午後の光が薄く差し込んでいる。

「保留だ」

 賛成でも反対でもない。桐嶋が判断を留保するのは珍しかった。

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 詩音は作戦室の隅にいた。折りたたみの椅子に座り、ノートパソコンを膝の上に載せている。画面には何も表示されていない。スリープ状態のまま。

 来栖朔。

 その名前を聞いた瞬間、何かが引っかかった。記憶の底のほう。指先に触れるか触れないかの距離にある何か。

 来栖。KURUSU。s.kurusu。

 メタデータで見た名前。クラウドストレージのアカウント名。ファイルパスに残されていた名前。それは知っている。自分が見つけた情報だ。

 だが、引っかかっているのはそこではない。もっと前。もっと古い記憶。ラフトにいた頃の記憶。会社が潰される前の記憶。

 何だったのか。

 詩音は思い出せなかった。思い出せないことが気持ち悪かった。脳の中にインデックスのない文書がある。ファイルは存在するが、検索にかからない。

 奏が詩音のほうを見た。

「詩音さん。意見はありますか」

 詩音は口を開きかけた。閉じた。

 来栖という名前に反応していることを伝えるべきか。だが何に反応しているのか自分でもわからない。わからないことを報告するのは、データを報告するのとは違う。感覚の報告は詩音の得意分野ではなかった。

「……特にありません」

 声が小さかった。画面を見ていた。スリープ状態の黒い画面を。

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 御手洗は四つ目の椅子に座っていた。テーブルの上にはドリップコーヒーが四人分。御手洗が淹れた。豆は二十四グラム。四人分で九十六グラム。湯温は八十五度。

 来栖朔という名前を聞いたとき、御手洗は何も感じなかった。

 知らない名前。三十年の取材歴の中に来栖という人物は出てこない。金融、政官、裏社会。どの引き出しにもない名前。

 だが、奏の報告は聞いた。来栖が逃げなかったこと。案件番号を認めたこと。自分が壊した人間の数を答えたこと。四十二件。死亡三人。

 御手洗は記者だった。三十年間、人間を見てきた。取材対象が嘘をつくとき、つかないとき、嘘と本当の境界にいるとき。その違いを知っている。

 奏の報告から読み取れるのは、来栖が嘘をつく必要のない情報を選んで話しているということだった。案件番号は事実。処理件数は事実。死亡者数は事実。事実で固めた話の中に嘘を混ぜれば、嘘が見えにくくなる。

 だが、それは同時に、事実を話す意志があるということでもある。

「御手洗さんは」

 奏の視線が向いた。

「私は賛成する」

 桐嶋が振り返った。

「理由を聞いてもいいか」

「理由はない」

「ないわけがないだろう」

「ないよ。理由があって人を受け入れる組織は、理由がなくなったら人を切る。そういう組織を、私は三十年間取材してきた」

 桐嶋は何かを言いかけた。やめた。腕組みを解いて、コーヒーに手を伸ばした。

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 奏は四人の反応を記録した。

 桐嶋。保留。理由は来栖が機構に泳がされている可能性。論理的な判断。

 詩音。沈黙。意見なしと言ったが、声が小さかった。何かを考えている。来栖の名前に反応していた可能性がある。だが奏にはその理由がわからなかった。

 御手洗。賛成。理由なし。正確には、理由を言語化することを拒否した。記者として三十年間人間を見てきた直感かもしれない。あるいは、自分が参加を決めたときに理由を聞かれたくなかったから、同じことを他人にもしないだけかもしれない。

 三人の反応を書き終えて、奏はペンを置いた。

 合議の結果。賛成一。保留一。沈黙一。

 全会一致ではない。多数決にも至っていない。だが奏は、この結果を想定していた。

 来栖を合流させるには、桐嶋の保留が解除される必要がある。解除のためには、来栖が泳がされていないという証拠が要る。証拠は、来栖自身から引き出すしかない。

「もう一度会います」

 奏は手帳を閉じた。

「次は、来栖さんが何を持っているかを確認します。情報だけでなく、物理的に」

 桐嶋が奏を見た。元公安の目。五秒。

「俺も行く」

「一人でいいです」

「一人で行くのは二回までだ。三回目は俺が行く。お前が一人で判断するな」

 奏は三秒黙った。

「わかりました。ただし、来栖には事前に伝えます。二人で行くことを」

「構わない」

 御手洗がコーヒーのおかわりを淹れた。桐嶋のカップに注いだ。桐嶋は礼を言わなかった。御手洗も期待していなかった。旧社屋の壁時計が午後三時を指した。会議は一時間で終わった。結論は出ていない。だが四人が同じテーブルで同じ問題について話した。それ自体が、三ヶ月前にはなかったものだった。

 詩音はまだ画面を見ていた。スリープ状態の画面。黒い鏡の中に、自分の顔がぼんやり映っている。

 来栖朔。

 どこかで聞いた名前。いつ。どこで。誰の口から。

 ラフトにいた頃、上司が誰かの名前を口にしたことがあった。会議室で、電話の後に。小さな声で。聞き取れなかった。聞き取れなかったが、音の輪郭だけが残っている。二音節の苗字。く、で始まる。

 確証はない。記憶は断片で、断片は検索にかからない。

 思い出せない。まだ。