小説置き場
再建屋 梶 誠一

第37話「動画」

2,738文字 約6分

黛奏は約束通りに来た。

 前回と同じ時間。午後一時。インターホンが鳴る前に、僕は外階段の足音で分かった。革靴ではない。スニーカー。歩幅は狭いが一定のリズムがある。迷いのない歩き方だった。

 ドアを開けた。

「お邪魔します」

 彼女はそれだけ言って靴を脱いだ。前回と同じ位置に揃えて置いた。左右の間隔が正確に同じだった。帳簿屋の習慣がこんなところにも出る。

 コーヒーを淹れた。前回と同じ豆。同じ温度。同じ分量。僕の側にも手順がある。手順は安心を作る。安心は信頼に似ている。信頼そのものではないが。

「来栖さん。前回の続きを聞きます」

「離脱した理由ですね」

「はい」

 テーブルの上に録音機材はない。手帳とボールペンだけ。百均のA5ノート。安い道具で記録する人間は、記録の中身を信じている。

「二〇二四年の三月でした」

 僕はコーヒーカップを両手で包んだ。温かい。冬の部屋は寒い。暖房は最低限にしている。

「担当していた案件がありました。KRS-042。厚労省の係長。公益通報者保護法の改正に関わる内部資料を外部に漏洩しようとした人物です。漏洩といっても、法の抜け穴を塞ぐための資料で、本人は正しいことをしているつもりだった」

「つもり、ですか」

「正しいかどうかは、僕の仕事の範囲外でした。僕の仕事は処理です。手順通りに、対象者の信用基盤を崩す。上司との関係、同僚の信頼、家族の安定。ステップ一から順番に」

 黛さんは何も言わなかった。ペンが紙の上を走る音だけが聞こえた。

「処理は順調でした。ステップ一から四まで。上司への匿名情報、口座への不審な入金、配偶者の職場への連絡、内部告発の偽装。四ヶ月で完了。対象者は依願退職し、再就職の見込みもなくなった。僕は報告書を書いて、次の案件に移った。処理済み。それで終わりのはずでした」

「終わらなかった」

「終わりませんでした」

 僕は窓の外を見た。住宅街の屋根が並んでいる。灰色の瓦。冬の空。どこにでもある景色。

「退職から三ヶ月後に、その人は自殺しました。首吊りです。発見したのは娘さんでした。中学二年生。十四歳」

 黛さんのペンが止まった。一秒。二秒。また動き始めた。

「自殺そのものは、僕が直接関与した結果ではありません。処理は信用の破壊まで。その先で何が起きるかは、個人の問題として扱われる。機構のマニュアルにも『処理完了後の対象者の行動は管轄外』と書かれていました」

「管轄外」

「はい。僕もそう考えていました。処理は手順であり、手順の先にある結果は因果関係として立証できない。法的にも、論理的にも。そう教えられたし、そう信じていた」

 コーヒーが冷めていく。僕はカップを置いた。

「娘さんの名前は知りません。知る必要がなかったから。でも動画は見ました」

「動画」

「SNSに上がっていました。父親の葬儀の日に撮られたもの。撮影者は同級生だったのかもしれない。ショート動画で、十五秒くらい。娘さんが泣いている。声を出さずに泣いていました。口を固く閉じて、肩だけが震えていて、制服の袖で目を拭いている」

 黛さんは書いていた。手が動いている。顔は手帳に向けられている。

「あの動画が消えるまでに三日かかりました。遺族の申請でプラットフォームが削除した。三日間で再生回数は一万二千回。コメントは百四十三件。その中に、父親を中傷するものが十一件ありました」

「その中傷は」

「僕が流した情報が元です。処理中にSNSに投下した偽の告発。退職後も拡散され続けていた。本人が死んだ後も消えない。娘の目に触れる場所に残り続けていた」

 沈黙。十秒。外でバイクのエンジンがかかる音がした。

「あの子の顔を、まだ覚えています」

 嘘かもしれない。本当かもしれない。僕自身にもわからない。

 記憶というものは、後から作れる。クリーナーの仕事で学んだことの一つだ。人間は自分が覚えていたいものを覚え、覚えていたくないものを変形させる。僕が覚えているあの子の顔は、本当にあの動画の顔なのか、それとも僕が作り上げた像なのか。

 区別がつかない。

「来栖さん」

「はい」

「それが離脱の理由ですか」

「理由の一つです。一つだけではありません。処理件数が四十二件を超えたあたりから、手順を実行する時に手が震えるようになっていました。最初は寒さのせいだと思った。夏にも震えたので、寒さではなかった」

「手が震える」

「処理中に。報告書を書く時に。偽の証拠を作成する時に。震えは小さかったけれど、作業の精度に影響が出始めていた。機構は精度の低下を許容しません。僕は使えなくなりつつあった」

 黛さんが顔を上げた。目が合った。彼女の目は感情を映さない。分析している目だった。

「良心の呵責で離脱したという話と、精度の低下で使えなくなったという話は、同時に成り立ちます」

「はい」

「どちらが本当ですか」

「両方です。あるいは、どちらも本当ではないのかもしれません。僕は自分の動機を正確に把握できていません。把握できていたら、もっと早く辞めていた」

 黛さんはペンを置いた。手帳を閉じなかった。開いたまま、テーブルの上に残した。

「来栖さん。一つだけ確認します」

「何ですか」

「あなたが処理した四十二件のうち、死亡した対象者は何人ですか」

 僕の手が止まった。コーヒーカップに伸ばしかけた手が。

「三人です」

「自殺ですか」

「二人が自殺。一人は事故死とされていますが、状況から見て自殺の可能性が高い」

 黛さんは数字を書いた。42。3。ペンの先が紙に刺さるような筆圧だった。

「記録しました」

 それだけ言って、黛さんはコーヒーを飲んだ。今回は最後まで飲み干した。

 帰り際に聞いた。

「黛さん。僕の話を、信じましたか」

「信じるかどうかは帳簿の仕事ではありません」

「では、何の仕事ですか」

「記録の仕事です。記録は、後から検証できる。信じるかどうかより、検証可能かどうかのほうが大事です」

 ドアが閉まった。外階段の足音が遠ざかっていく。一定のリズム。迷いのない歩き方。

 僕はテーブルに戻った。二つのカップを洗った。スポンジで三回こすり、水で流し、布巾で拭いた。黛さんのカップには口紅の跡がなかった。化粧をしていない。経済的な理由か、習慣か。どちらでもいい。

 ノートパソコンを開いた。検索窓に何も打たなかった。画面を見ていた。自分の顔が画面のガラスに薄く映っている。穏やかな顔。いつでも穏やかに見える顔。クリーナーに必要な顔。信頼させるための顔。辞めた後もこの顔は変わっていない。

 窓の外を見た。灰色の空。十二月の午後三時。

 あの子の顔を、まだ覚えている。

 本当に覚えているのか、覚えていたいだけなのか。その区別がつかないことが、たぶん、僕がまだ完全には壊れていない証拠なのだと思う。

 あるいは、壊れていることの証拠なのかもしれない。