来栖朔の住所は、詩音が二日で特定した。
川崎市中原区のワンルームマンション。築十二年。家賃は六万五千円前後と推定される。住民票は移していない。郵便受けの表札は別の名前。だがクラウドストレージのアカウント名「s.kurusu」と、同じマンションの宅配ボックスの利用履歴が一致した。詩音の報告書には「公開情報のみ。不正アクセスなし」と書かれていた。
桐嶋は反対した。
「単独で行くな。最低でも俺が近くにいる」
「近くにいたら、来栖は話しません」
「話さなくていい。観察するだけでいい」
「観察なら私一人で十分です」
桐嶋は三秒黙った。それから「戻らなかったら十二時間後に動く」とだけ言った。
十二月二十八日。午後一時。私は川崎駅からバスに乗った。
中原区のマンションは幹線道路から一本入った住宅街にあった。五階建て。エントランスにオートロックはない。外階段の手すりは錆びていない。湊裏区の私のアパートより新しく、清潔で、しかし同じ種類の匿名性がある。名前を隠して住む人間に適した建物。
三階の三〇五号室。表札は「田中」。
インターホンを押した。
七秒後にドアが開いた。確認もせずに。覗き穴を使った様子もなかった。
来栖朔は、想像していたのとは違う人間だった。
三十五歳。百七十五センチ前後。痩せているが不健康ではない。髪は短く整えられている。白いシャツにグレーのスラックス。部屋着ではない。誰かに会う準備をした服装。
表情は穏やかだった。穏やかすぎた。私を見ても驚かず、警戒もしなかった。
「どなたですか」
知っている。そう直感した。この男は私が来ることを知っていた。
「黛奏です」
「黛さん。KRS-019の」
私の体が一瞬硬くなった。自分の案件番号を本人の口から聞くのは初めてだった。
「上がりますか。コーヒーくらいは出せます」
部屋に入った。六畳の居室。キッチンは小さいが整理されている。流し台に洗い物はない。冷蔵庫の上にタオルが一枚畳んで置かれている。テーブルの上にノートパソコンが一台。画面は閉じてある。本棚には実用書が並んでいる。心理学、行動経済学、広報戦略、統計入門。クリーナーの仕事に使う知識体系が、そのまま本棚に残されていた。背表紙に折れ目がある。読み込まれている。辞めた後も捨てていない。
来栖がコーヒーを淹れた。インスタントではない。ドリッパーで丁寧に落としている。湯の温度を測っていた。温度計は金属製で、御手洗のものとは違うメーカーだった。豆を挽く音がしないので、事前に挽いてあったのだろう。来客を予期していた証拠がまた一つ増えた。
抽出に三分かかった。その間、来栖は何も話さなかった。私も話さなかった。沈黙の質が、敵対的ではなかった。待合室の沈黙に似ていた。何かが始まる前の、手続き的な時間。
二人分のカップがテーブルに置かれた。白い陶器。揃いのカップ。一人暮らしの部屋に揃いのカップがあるのは、客を想定しているということだ。
私はカップに手をつけなかった。
「来栖さん。いくつか確認したいことがあります」
「どうぞ」
「あなたは調停機構の現場部に所属していた」
「はい」
「KRS-019は、あなたが担当した案件ですか」
「はい。税務局の内部告発者。黛奏さん。あなたです」
声のトーンが変わらない。事実を述べているだけの声。謝罪も言い訳もない。
「KRS-028とKRS-031も、あなたの担当ですか」
「はい。片桐正之さんと、ラフト」
「三件とも認めるんですか」
「認めるも何も、事実ですから」
コーヒーの湯気が、テーブルの上でゆっくり消えていった。
私は来栖の顔を見た。穏やかな表情。目元に疲労の影はあるが、追い詰められた人間の目ではない。逃げる準備もない。この部屋に鍵をかけて立てこもるつもりも、荷物をまとめて消えるつもりもない。
来栖は逃げない。その事実が、私の計算を狂わせた。
逃げる人間には追い方がある。隠す人間には探し方がある。だが、逃げもせず隠しもしない人間に対して、私は手順を持っていなかった。
「僕に何を期待しているんですか」
来栖が聞いた。声は穏やかだった。攻撃的ではなく、本当に知りたいという響き。
「期待はしていません」
「では、なぜ来たんですか」
「帳簿に載せたいだけです」
来栖が初めて表情を変えた。変わったのは目元だけで、口角は動かなかった。驚きではない。理解に近い何か。
「帳簿」
「私たちの組織には帳簿があります。収入、支出、情報の出入り、人の出入り。全部記録します。あなたの存在を記録したい」
「記録して、どうするんですか」
「使います。あなたが持っている情報を。あなたが知っている手口を。あなたが見た機構の内部を」
「それを僕が提供すると思いますか」
「分かりません。だから期待はしていないと言いました」
沈黙。十秒。窓の外でバスのエンジン音が聞こえた。
来栖がコーヒーを一口飲んだ。
「黛さん。あなたの人生を壊したのは、僕です」
「知っています」
「それを知った上で、帳簿に載せたいと」
「帳簿は感情で書くものではありません」
来栖が私を見た。五秒。それから、小さく頷いた。
「面白い人ですね」
「面白くはありません。必要なだけです」
私はコーヒーに手をつけた。冷めかけていた。味は悪くなかった。豆の質が、この男の収入に見合わないほど良い。それも記録した。
窓の外では冬の日差しが傾き始めていた。午後二時半。カーテンの隙間から入る光が、テーブルの上のカップに斜めに当たっている。来栖は光の中に座っていた。影を避けない人間。暗がりに身を置く人間ではない。少なくとも、そう見せている。
帰り際、玄関で来栖が言った。
「また来ますか」
「必要があれば」
「次は、僕の話を聞いてくれますか。離脱した理由を」
「聞きます。ただし、嘘かどうかは私が判断します」
「それで構いません。嘘かどうか、僕にも分からないことがありますから」
ドアが閉まった。
外階段を降りながら、私は手帳を開いた。百均のA5ノート。ページの右上に日付を書いた。
来栖朔。三十五歳。穏やか。丁寧。逃げない。コーヒーは良い豆を使う。案件番号を覚えている。自分の罪を否定しない。部屋は整頓されている。本棚に仕事の道具を残している。
バス停まで歩いた。住宅街の道は狭く、午後の光が電柱の影を長く伸ばしていた。車は少ない。子どもの声が聞こえたが、姿は見えなかった。
バスを待つ間に、最後に一行書き加えた。
信用できるかどうかは、まだ分からない。
バスが来た。乗った。窓際の席に座った。川崎の街が流れていく。来栖のマンションが見えなくなった。
手帳を閉じた。帰ったら桐嶋に報告する。詩音にも共有する。来栖が何を持っていて、何を差し出す用意があるのか。それはまだ分からない。分からないことを記録した。それだけが、今日の成果だった。