一月六日。旧社屋の二階。対面で話すと約束した日。
御手洗がコーヒーを淹れた。三人分。詩音はチャットで参加している。
桐嶋は窓際ではなく、テーブルの正面に座っていた。いつもと違う位置。これは話し合いであって、見張りではないという意思表示だと私は解釈した。
私はメモ帳を開いた。三冊目。昨夜書いた内容を確認した。
「来栖朔への接触について、私の考えを説明します」
桐嶋が頷いた。腕を組んだまま。
「まず、桐嶋さんの三つの指摘を整理します。一つ目、来栖は嘘のプロであり言葉の真偽が判別できない。二つ目、来栖が泳がされている罠の可能性がある。三つ目、来栖は私の人生を壊した実行者であり、私の判断力が歪む可能性がある」
「ああ」
「三つとも正しい。反論はしません」
桐嶋の眉がわずかに動いた。
「反論しない」
「反論しません。三つとも事実です。来栖は嘘のプロです。罠の可能性はあります。私の判断力が歪む可能性もあります。その上で、接触すべきだと考えています」
「理由を聞く」
私はメモ帳のページをめくった。
「理由は一つです。私たちには、調停機構の内部構造を知っている人間がいない」
桐嶋は何も言わなかった。
「桐嶋さんが公安時代に掴んだ情報は、機構の末端の動きだけです。執行部の構造は推測。評議部に至っては名前すら分からない。詩音のOSINT技術で得られる情報も、外部から見える表面のデータに限られる。御手洗さんの三十年前の取材資料も、当時の末端の手口までです」
「分かっている」
「分かっているなら、結論も分かるはずです。外部からの調査だけでは、調停機構の全体像には辿り着けない。内部を知っている人間が必要です。来栖朔は、現時点で唯一の候補です」
桐嶋が腕を解いた。テーブルの上に両手を置いた。
「唯一の候補だから、代替がない。代替がないから、リスクを取ってでも接触する。論理は分かる。だが、論理だけで人は判断しない」
「何が言いたいのですか」
「お前は来栖に会いたいんだ。理由は論理だけじゃない。自分の人生を壊した人間の顔を見たい。声を聞きたい。どういう人間が、どういう顔で、二ヶ月かけてお前の信用を壊したのかを知りたい」
私はペンを持つ手を見た。動いていない。震えてもいない。
「否定しません」
「否定しないのか」
「知りたいと思っています。来栖がどういう人間なのか。それは組織にとって必要な情報であると同時に、私個人にとっても知りたい情報です。二つの動機が重なっている。だからこそ、判断が歪む可能性がある。桐嶋さんの三つ目の指摘の通りです」
御手洗がコーヒーカップを置いた。
「黛さん。一つ聞いていい」
「どうぞ」
「来栖に会って、相手が嘘をついていた場合。あなたはそれを見抜けるのか」
私は三秒考えた。
「分かりません。帳簿の嘘は見抜けます。数字は矛盾を隠せない。だが人間の嘘は、帳簿とは違います。来栖は四年間、人を騙すことを仕事にしていた。私よりも嘘の技術は上です」
「技術が上の相手にどう対処する」
「一人では対処できません。だから桐嶋さんに同席してもらいたい」
桐嶋が私を見た。
「俺が同席する」
「はい。桐嶋さんは人を見る目があります。公安時代の技術です。私が帳簿を読むように、桐嶋さんは人間を読む。二人で来栖に会えば、片方が見落としたものをもう片方が拾える」
「それは俺をお前の保険にするということだ」
「そうです。保険です。来栖が罠である場合に備えた保険。私の判断力が歪んだ場合に備えた保険。桐嶋さんが『これ以上は危険だ』と判断したら、その場で接触を打ち切ります。桐嶋さんの判断を優先します」
桐嶋は五秒黙った。窓の外を見た。それからテーブルに視線を戻した。
「条件を出す」
「聞きます」
「一つ。接触は俺が場所を決める。来栖が指定した場所には行かない」
「了解です」
「二つ。最初の面会は三十分以内。延長はしない」
「了解です」
「三つ。来栖が話した内容は全て記録する。録音はしない。手書きで記録する。俺と奏の両方が記録して、後で突き合わせる。食い違いがあれば、来栖が意図的に二人に異なる印象を与えている可能性がある」
「三つ目は——それは公安の手法ですか」
「取調べの基本だ。複数の記録者が独立に記録して突き合わせる。人間の記憶は一人分では信用できない」
私は三つの条件をメモ帳に書いた。青いインク。
「了解しました。三つとも守ります」
御手洗がコーヒーを飲み干した。マグカップを流し台に持っていった。
「二人とも。一つだけ言っておく」
桐嶋と私が御手洗を見た。
「記者として三十年やってきて、最も難しい取材対象は嘘をつく人間ではなかった。本当のことと嘘を混ぜて話す人間だ。全部嘘なら見抜ける。全部本当なら問題ない。だが八割が本当で二割が嘘の場合、どの二割が嘘なのかを見極めるのは極めて難しい」
桐嶋が頷いた。
「来栖はそのタイプだろう」
「四年間で三十一人を処理した人間だ。全て嘘で通すほど下手ではない。本当のことを混ぜてくる。重要な事実を自分から差し出してくる。それで信用を得て、二割の嘘を埋め込む」
私はメモ帳に書いた。
「八割本当、二割嘘。どの二割かを見極めるのが本質」
詩音のチャットメッセージが入った。
『来栖の現在の所在について、一つ手がかりがあります。二〇二三年九月に、東京都墨田区の公営住宅の入居申請があった形跡があります。申請者名は来栖ではありませんが、生年月日と年齢が一致します。偽名の可能性があります』
桐嶋が画面を見た。
「偽名で公営住宅に入居している。自分の痕跡を消す技術は持っている。だが完全には消しきれていない。生年月日が一致するのは、偽造書類に本当の情報を混ぜるクリーナーの癖だ」
私は詩音に返信した。
『住所を特定できますか』
『もう少し時間をください。三日あれば絞り込めると思います』
三日。
私は窓の外を見た。一月の夕方。日が短い。五時前でもう暗い。旧社屋の周囲は静かだった。港からの風が窓ガラスを揺らしていた。
来栖朔。私の人生を壊した男。調停機構の内部を知る唯一の人間。嘘のプロフェッショナル。
接触する。桐嶋の条件を守って。御手洗の警告を胸に入れて。詩音の情報を頼りに。
四人で一人の男に会いに行く。正確には、二人が会い、一人が情報を提供し、一人が経験で助言する。四人の役割が初めて同時に機能する場面になる。
賭けだ。来栖が味方になるか、最も精巧な罠になるか。
桐嶋が立ち上がった。ジャケットを羽織った。
「奏」
「はい」
「お前が来栖に接触したい理由の半分は、組織のためだ。もう半分は、お前自身のためだ。そのことを忘れるな。自分のための判断を、組織のための判断と混同した瞬間に、お前はRAFTのSと同じ道を歩む」
私はメモ帳を閉じた。
「忘れません」
「本当か」
「本当かどうかは、来栖に会った後に分かります」
桐嶋はドアに向かった。途中で振り返った。
「三日後。詩音の情報が揃ったら、作戦を立てる。場所は俺が決める」
ドアが閉まった。階段を降りる足音。
御手洗がコーヒーの残りを片づけていた。豆の袋を棚に戻し、ドリッパーを洗った。
「黛さん」
「はい」
「桐嶋は正しいことを言った。だが正しいことだけでは人は動かない。あなたが来栖に会いたいという気持ちは、組織論では説明できない。それでいい。記者も同じだ。取材対象に会いたいという気持ちは、記事の必要性だけでは説明できない」
私は御手洗を見た。
「御手洗さんは、来栖への接触に賛成ですか」
「反対はしない。ただ、覚悟はしておけ」
「何の覚悟ですか」
「来栖に会って、その男が普通の人間だった場合の覚悟だ。自分の人生を壊した人間が、怪物でも悪人でもなく、ただの三十五歳の男だった場合。その落差に耐えられるかどうか」
私は何も言わなかった。
旧社屋を出た。外は暗かった。一月の風が冷たい。
駅に向かう途中で、メモ帳を開いた。街灯の下で。
今日の出費。交通費、片道四百二十円。コンビニのおにぎり、百四十円。合計五百六十円。
帳簿に記録した。三箇条の三番目。帳簿は公開する。
来栖に会うための賭金は、まだ計上していない。金額で測れない賭けだ。私の判断力。桐嶋の信頼。組織の安全。
それでも会う。会わなければ、外側からの情報だけで戦い続けることになる。外側からでは、七十年の組織には届かない。
三日後。来栖朔に会う。
帳簿に載らない賭金を、私は静かに積んでいた。