来栖朔。三十五歳。現住所不定。職業不明。
桐嶋は手元のメモを見た。万年筆で書いた走り書き。情報源は三つ。詩音がPDFメタデータから拾ったアカウント名「s.kurusu」。RAFTのチャットログに残っていた「現場部」という単語。そして、桐嶋が公安時代の伝手を辿って手に入れた、一枚の人事異動資料。
人事異動資料は、一般社団法人公共政策調整研究所のものだった。調停機構の表の顔の一つ。二〇二一年度の契約職員名簿に「来栖朔」の名前があった。肩書は「調査員」。契約期間は二〇一八年四月から二〇二二年三月。四年間。
調査員。調停機構の現場部では、クリーナーと呼ばれているらしい。掃除人。人の信用を破壊し、社会的な存在を消去する作業員。暴力は一切使わない。だが殺傷力は暴力以上だ。
桐嶋は新宿の事務所でメモを読み返した。一月四日。正月休みは取らなかった。休む理由がない。
来栖の経歴を時系列で整理した。
二〇一八年、二十七歳で契約職員として機構に入った。入った経緯は不明。公安の記録には来栖の名前は出てこない。末端の作業員レベルは、公安の監視対象にならなかったのだろう。桐嶋が公安にいた頃、機構の存在に気づいた時点で切られた。末端にまで手が届く前に。
二〇一八年から二〇二二年の四年間で、来栖が担当した案件は少なくとも三十一件。詩音が見つけたファイルパスの連番がKRS-031まで存在していた。四年で三十一件。年間約八件。二ヶ月に一件以上のペースで、人の信用を破壊していた計算になる。
桐嶋はペンを置いた。
二ヶ月に一件。
一人の人間を社会的に消去するのに、二ヶ月。来栖はそれを四年間繰り返した。三十一人。三十一人の人生を計画的に壊した。
その中にKRS-019。奏の案件。KRS-028。片桐の案件。KRS-031。RAFTの解散処理。
来栖は奏を潰した男だ。
来栖はラフトを潰した男だ。
桐嶋は椅子の背にもたれた。事務所の天井を見た。蛍光灯が一本切れかけている。ちらつく光。交換する気力がない。
来栖の離脱時期は二〇二二年。契約期間の満了と一致している。契約を更新しなかったのか、更新が認められなかったのか。詩音が調べた限りでは、来栖のアカウント「s.kurusu」は二〇二二年四月以降のファイル更新に一切登場しない。
そして——二〇二二年以降、来栖の足取りが消えている。
住民票の異動なし。転出届なし。健康保険の記録なし。年金の支払い記録なし。クレジットカードの利用履歴なし。詩音が確認できる公開情報の範囲で、来栖朔という人間は二〇二二年四月以降、社会から消えていた。
消えている。
調停機構の元クリーナーが、自分自身を消している。人を消す技術を知っている人間が、その技術を自分に使っている。
桐嶋は携帯を取った。奏に電話した。
三コールで出た。
「桐嶋さん」
「来栖朔の件だ。情報を整理した」
「聞きます」
「来栖は二〇一八年から二二年まで機構の現場部にいた。四年間で少なくとも三十一件の案件を処理している。一件につき約二ヶ月。ターゲットの信用を破壊する実務を担当していた。クリーナーと呼ばれている」
奏は三秒黙った。
「三十一件」
「三十一件。お前の案件はKRS-019。十九件目だ。来栖が機構に入って二年目。まだ十九件。経験を積んでいる途中だったことになる」
「私は来栖の練習台だったということですか」
奏の声に感情はなかった。いつも通りの平坦な声。だがその平坦さの中に、わずかな硬さがあった。桐嶋にはそれが聞き取れた。
「練習台と呼ぶかどうかは別として、十九件目と三十一件目では練度が違う。三十一件目はRAFTの解散処理だ。組織を一つ丸ごと潰す案件。それが任されるということは、三十一件目の時点で来栖は機構内で相当な信頼を得ていたことになる」
「信頼を得て、そして離脱した」
「離脱の理由は、担当ターゲットの一人が自殺したことだと詩音が推測している。だが確定情報ではない」
桐嶋は窓の外を見た。新宿の雑居ビルの窓からは、向かいのビルの壁しか見えない。灰色の壁。一月の曇り空。
「奏。俺の判断を言う」
「聞きます」
「来栖は危険だ。接触するべきではない」
三秒の沈黙。
「理由を確認させてください」
「三つある。一つ。来栖は嘘のプロだ。四年間で三十一人の信用を破壊した人間だ。偽証拠を作り、人間関係を操作し、ターゲットの社会的な存在を消去した。そういう人間の言葉は、どこまでが本当でどこからが嘘か、判別できない」
「はい」
「二つ。来栖は自分自身を消している。二〇二二年以降、公的記録に一切姿を現していない。これは二つの可能性がある。本当に機構から逃げて潜伏している。あるいは、機構側が来栖を泳がせている。来栖を餌にして、機構に近づく人間を特定しようとしている」
「はい」
「三つ。来栖の案件番号にお前の案件がある。KRS-019。来栖はお前の人生を壊した実行者だ。その人間に接触するということは、お前の判断力が歪む可能性がある」
奏が五秒黙った。
「三つとも正しい指摘です」
「だから接触するな」
「判断は保留させてください」
「保留」
「はい。桐嶋さんの指摘は全て合理的です。だから、合理的に反論する準備をしてから、改めて話し合いたい」
桐嶋は携帯を握ったまま、三秒考えた。
奏の話し方を知っている。保留と言ったときの奏は、既に答えを持っている。持っているが、相手を説得する材料を揃えてから出すつもりだ。帳簿を読む人間のやり方だ。結論を先に出さず、根拠を並べてから提示する。
「保留でいい。だが一つ条件がある」
「何ですか」
「来栖への接触を決める前に、俺の目の前で理由を説明しろ。チャットではなく対面で。お前の目を見て判断する」
「分かりました」
電話を切った。
桐嶋はメモを見た。来栖朔。三十五歳。元クリーナー。三十一件。
来栖という男が何者なのか、紙の上の情報だけでは分からない。分からないからこそ危険だ。
嘘をつくプロフェッショナル。人の信用を壊すことに特化した技術者。その人間が味方になる可能性と、その人間が最も精巧な罠である可能性が、同じ重さで存在している。
桐嶋は蛍光灯のちらつきを見上げた。交換しなければ。だが今日はしない。来栖の件の方が先だ。
メモの余白に一行書き足した。
「来栖朔——信じるな、記録しろ」
自分の信条を、来栖に対して最も厳密に適用する。それが桐嶋の出した、当面の結論だった。