RAFTのチャットログを読み終えた翌日の夜、私はメモ帳を開いた。
百均のA5ノート。表紙は灰色。三冊目になっていた。一冊目は封筒の分析。二冊目は桐嶋のリストと防御手順書。三冊目は、組織の運営に関するメモ。
組織。
私たちを組織と呼んでいいのかどうかは分からない。四人。旧社屋の二階に集まり、段ボールとコーヒーに囲まれて、調停機構の情報を整理している。名前もない。規約もない。リーダーもいない。
リーダーもいない、というのは嘘だ。桐嶋と詩音と御手洗は、私を中心に動いている。私が方針を示し、それに基づいて各自が判断する。リーダーという呼称を使ったことはないが、構造としてはそうなっている。
RAFTのSも同じだったはずだ。メンバーから「Sさん」と呼ばれ、方針を示し、組織を動かしていた。そのSが組織を壊した。壊したのは善意と情報の非対称だった。
同じ轍を踏むわけにはいかない。
私はペンを取った。青いインク。
何を書くべきか。組織の規約か。行動指針か。倫理綱領か。
大げさなものは要らない。四人の組織に百ページの規約は不要だ。必要なのは、最低限のルール。これだけは破らないという線。RAFTが引けなかった線を、私たちは先に引いておく。
三十分考えた。コーヒーを淹れた。規定量の三分の二。豆が減ってきている。来週買い足す必要がある。出費の記録をつけた。
コーヒーを飲みながら、書いた。
一、調停機構と同じ手は使わない。
ペンを止めた。同じ手とは何か。具体的に書く必要がある。
調停機構の手口。信用破壊。偽証拠の捏造。匿名での情報リーク。人間関係の切断工作。口座への不正入金。全てが合法の範囲内で、全てが証拠を残さない。
同じ手を使わないということは、これらの手法を使わないということだ。偽証拠は作らない。匿名で誰かの信用を壊さない。人間関係を意図的に切断しない。
だが、もっと根本的なことがある。
調停機構の手口の本質は、相手に反論の機会を与えないことだ。匿名の情報操作は、情報の出所が分からないから反論できない。偽証拠は、本物と見分けがつかないから否定できない。人間関係の切断工作は、工作されていることに気づかないから防げない。
反論の機会を奪う。それが調停機構の手口の核だ。
だから、一つ目のルールはこう書くべきだ。
書き直した。
一、調停機構と同じ手は使わない。具体的には、相手から反論の機会を奪う手法を一切用いない。
二つ目。
RAFTが壊れた原因は情報の非対称だった。Sが交渉を隠していた。Kが部分的な情報で判断した。情報が共有されていれば、瓦解は防げたかもしれない。
匿名の情報操作は、情報の非対称を意図的に作り出す行為だ。調停機構はそれを武器にしている。私たちはそれを使わない。
二、匿名の情報操作はしない。情報を出すときは、出所を明らかにする。
これは厳しいルールだ。匿名で情報を出せないということは、私たちの存在が相手に知られるリスクを常に負うということだ。調停機構と戦う上で、匿名性は最大の武器になり得る。その武器を自ら封じる。
だが、匿名の情報操作を始めた瞬間に、私たちは調停機構と同じ土俵に立つ。同じ土俵に立てば、七十年の歴史と組織力を持つ相手に勝てるわけがない。別の土俵で戦う。そのために、この制約が必要だ。
三つ目。
帳簿。
私は元国税局調査官だ。帳簿を読む人間だ。帳簿から嘘を読む。帳簿に嘘が書いてあれば、組織は腐る。帳簿が正しければ、少なくとも金の流れは透明になる。
RAFTのチャットログには、資金に関する記述がほとんどなかった。活動資金がどこから来ていたのか、誰がいくら負担していたのか、何に使われていたのか。チャットログだけでは分からない。だが資金の不透明さは、組織の不信感の温床になる。
三、帳簿は公開する。組織の収支を全メンバーに開示する。
三つ書いた。三箇条。
ペンを置いた。メモ帳を見つめた。
十分な内容か。足りないのではないか。意思決定のプロセスは。メンバーの離脱条件は。外部との接触ルールは。
足りない。だが、足りないことを承知で三つに絞った。ルールが多すぎると誰も覚えない。覚えていないルールは守れない。守れないルールは存在しないのと同じだ。
三つ。これだけは破らない。この三つを守っている限り、私たちは調停機構とは違う。
翌朝、旧社屋に行った。桐嶋が先に来ていた。御手洗はコーヒーを淹れていた。詩音はチャットで待機していた。
私はメモ帳を開いて、三箇条を読み上げた。
一、調停機構と同じ手は使わない。具体的には、相手から反論の機会を奪う手法を一切用いない。
二、匿名の情報操作はしない。情報を出すときは、出所を明らかにする。
三、帳簿は公開する。組織の収支を全メンバーに開示する。
読み終えた。沈黙が五秒続いた。
桐嶋が最初に口を開いた。
「二番目。匿名の情報操作をしないということは、俺たちの動きが機構に見える状態で戦うということだ」
「はい」
「不利だな」
「不利です」
「それでも守るのか」
「守ります。匿名で動けば、RAFTと同じ道を辿ります。組織の内部に秘密が生まれ、秘密が不信を生み、不信が善意の暴走を招く」
桐嶋は三秒黙った。それから頷いた。小さく。一度だけ。
御手洗がコーヒーを配りながら言った。
「三番目。帳簿の公開。黛さん、今の段階で組織に帳簿と呼べるものはあるのか」
「ありません。だから今日から作ります」
「収入はゼロだろう」
「ゼロです。支出はあります。コンビニの印刷代。交通費。コーヒー豆。全て記録します」
御手洗が笑った。笑ったという表現は正確ではない。口の端がわずかに上がった。記者の笑い方だった。
「コーヒー豆の代金を帳簿に載せるのか」
「載せます。金額の大小は関係ありません。帳簿の本質は金額ではなく透明性です」
詩音のチャットメッセージ。
『三箇条、了解しました。質問があります。この三箇条を破った場合のペナルティは定めないんですか』
私は考えた。三秒。
『定めません。ペナルティで人を縛る組織にはしたくない。三箇条を守る理由は罰則ではなく、守らなければ私たちが調停機構と同じものになるという認識です』
詩音の返信。
『分かりました』
桐嶋が窓際に戻った。腕を組んで外を見ていた。
「奏」
「はい」
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「RAFTのSは、共存を選ぼうとした。お前は三箇条を選んだ。どちらも組織のルールだ。ルールを作った人間が、ルールを最初に破る可能性を考えているか」
私は答えた。
「考えています。だから三番目に帳簿の公開を入れました。帳簿は嘘をつけない。私が何を考えていても、帳簿が正しければ、少なくとも金の流れで嘘はつけない」
「金以外の嘘は」
「そのために桐嶋さんがいます。『信じるな、記録しろ』。私の言動も記録してください。私が三箇条を破りそうになったら、記録が証拠になる」
桐嶋は何も言わなかった。窓の外を見ていた。十二月の空。年の瀬。
私はメモ帳を閉じた。三箇条。最低限のルール。これで十分かどうかは分からない。分からないが、何も決めずに進むよりはましだ。
RAFTは善意で壊れた。私たちは三箇条で壊れにくくする。壊れないとは言わない。壊れにくくする。
それが今の私にできる、組織への最初の責任だった。