小説置き場
再建屋 梶 誠一

第32話「善意」

2,548文字 約6分

詩音がSの本名を特定した。曽根崎裕也。三十八歳。元中小企業診断士。

 特定の根拠は三つあった。チャットログに残されたメタデータから使用端末の機種が判明したこと。RAFTの活動期間中に同じ機種を登録していた通信契約の記録が、詩音の過去の調査データと一致したこと。そして、三年前に突然すべてのSNSアカウントを削除した人物のリストの中に、曽根崎の名前があったこと。

 三つの状況証拠。確定ではない。だが十分な蓋然性がある。

 曽根崎裕也の現在の所在は不明だった。住民票は三年前に抹消されている。転出届も出されていない。職についた記録もない。生存しているかどうかすら分からなかった。

 私はチャットログの後半を再読した。四十一件目以降。Sが消えた後のメンバーたちのやりとり。

 四十一件目。Kの発言。

 「Sが機構と交渉していた。これは裏切りだ。今すぐ全員に知らせる」

 四十二件目。Tの発言。

 「待ってくれ。Sから直接説明を聞くべきだ。一方的に裏切りと決めつけるのは危険だ」

 四十三件目。K。

 「待てない。Sが機構と会っているということは、俺たちの情報が機構に渡っている可能性がある。全員の安全に関わる」

 Kの論理は正しかった。組織のリーダーが敵対組織と秘密裏に接触していれば、メンバーの安全が脅かされる。それを即座に全員に共有するのは、組織防衛として合理的な判断だ。

 だがKはSのチャットログを全文読んでいなかった。読んでいれば、Sが翌日のミーティングで自ら開示する予定だったことを知っていたはずだ。Kが読んだのは三十五件目から三十七件目——機構との接触の事実と条件交渉の部分だけだった。

 部分的な事実。そこから導かれた合理的な判断。そして、その判断が組織を殺した。

 四十四件目。メンバーの一人——「H」。

 「Kの言う通りだ。Sは裏切った。俺たちの情報を機構に売ったんだ」

 四十五件目。T。

 「売ったとは限らない。交渉と売却は違う。Sの目的を確認すべきだ」

 四十六件目。K。

 「確認している時間はない。機構がこのチャットを監視している可能性がある。今すぐ全員退避しろ」

 四十七件目。H。

 「退避する。Sには二度と連絡しない」

 四十八件目。最後の書き込み。Tだった。

 「これで終わりなのか。二年間やってきたことが」

 それ以降、チャットは沈黙していた。

 私は紙を置いた。

 桐嶋が窓際から声をかけた。

「Kは善意で動いたんだな」

「はい。メンバーの安全を守ろうとした。論理的には正しい判断です」

「論理的に正しい判断が、組織を壊した」

「そうです」

 御手洗がコーヒーを注ぎ足した。三人分。豆の残りが少なくなっていた。

「黛さん。一つ確認していい」

「どうぞ」

「Kは、Sが翌日に開示する予定だったことを知っていたのか」

「知りませんでした。Kが読んだのはチャットログの一部です。三十五件目から三十七件目。機構との接触と条件交渉の部分だけ」

「なぜ全文を読まなかった」

「推測ですが、三十五件目の内容——機構の執行部に接触し、共存の条件交渉をしている——を読んだ時点で、Kは強い衝撃を受けたのだと思います。衝撃を受けた人間は、続きを冷静に読めない」

 御手洗が頷いた。記者の頷き方だった。

「俺も同じ経験がある。取材で衝撃的な事実に触れたとき、その先を読む冷静さを失う。最初の衝撃で判断を固めてしまう」

「はい。Kは最初の衝撃で『裏切り』と断定し、残りのログを読まずに行動した。結果として、Sが自ら開示する予定だった情報を、Kが『暴露』という形で先に出してしまった」

 桐嶋が腕を組んだ。

「暴露と開示は違う。開示は信頼の行為だ。暴露は告発の行為だ。同じ情報でも、出し方で組織への影響が変わる」

「その通りです。Sが自分の口で説明していれば、メンバーの反応は違っていたかもしれない。交渉の背景、条件の詳細、共存という選択肢の意味を、Sの言葉で聞いていれば」

「だがKが先に暴露した。裏切りという枠組みで」

「はい。一度『裏切り』と名前がついた行為は、後から『交渉だった』と説明しても覆せない。最初のフレーミングが全てを決めた」

 私は窓の外を見た。十二月の午後。雲が低い。旧社屋の周囲は静かだった。

 チャットに詩音のメッセージが入った。

 『Kの本名も調べますか』

 私は三秒考えた。

 『いいえ。今は必要ありません』

 Kの名前を知ることに意味はなかった。Kは善意で動いた。メンバーを守ろうとした。その善意が組織を殺した。名前を知っても、その構造は変わらない。

 御手洗が言った。

「善意が組織を壊す。記者としても何度か見た。内部告発の現場で」

「御手洗さんの経験では、善意の内部告発が組織を壊したケースは多いですか」

「多い。というより、組織を壊す内部告発のほとんどは善意から始まる。悪意で動く人間は慎重だ。善意で動く人間は急ぐ。急ぐから確認を怠る。確認を怠るから、部分的な事実で全体を判断する」

 桐嶋が言った。

「つまり、組織にとって最も危険なのは裏切り者ではなく、善意の人間だということか」

 沈黙が三秒続いた。

 私は答えた。

「善意の人間が危険なのではありません。善意の人間に十分な情報が渡っていないことが危険なんです」

 桐嶋が私を見た。

「情報の共有か」

「はい。Sは交渉を一部のメンバーにしか明かしていなかった。全員に開示する予定ではあったが、タイミングが遅れた。その遅れが致命的だった」

「遅れた理由は」

「反対されることを恐れたからです。チャットログの三十九件目。『全員に開示すれば反対が出る。Kは間違いなく反対する』。Sは反対を予測していた。予測していたから、開示を先延ばしにした」

「先延ばしにした結果、Kが先に見つけた」

「はい」

 私はクリアファイルを閉じた。

 RAFTの瓦解の構造が見えた。裏切りではなかった。善意だった。リーダーの善意——共存を模索する——と、メンバーの善意——組織を守ろうとする——が衝突した。どちらも正しかった。どちらも間違っていた。

 そして両方の善意の間にあったのは、情報の非対称だった。

 私はメモ帳に書いた。青いインク。

 「RAFT瓦解の原因:善意×善意×情報の非対称」

 一つの謎が解けた——RAFTは裏切りで壊れたのではなく、善意で壊れた。

 一つの教訓が生まれた。善意を信じるな。善意が機能する条件を整えろ。条件とは、情報の共有だ。