小説置き場
再建屋 梶 誠一

第3話「転居先不在」

2,185文字 約5分

翻訳を三件納品した翌日、奏は電車に乗った。埼玉県北部。最寄り駅から徒歩二十分の住宅地。三人目の被害者、農林水産省の元係長が最後に住民登録していた住所。

 十月の朝だった。空は高く、風が乾いている。駅を出ると田んぼが広がっていた。稲刈りの終わった田に藁が積んである。農道を歩くと靴の底に土がつく。東京とは空気の密度が違った。吸い込むと肺の奥まで入ってくる。

 住所の場所は、更地だった。

 コンクリートの基礎が剥がされ、整地されたばかりの砂利が敷かれている。周囲を金属フェンスが囲み、「売地」の看板が不動産会社の連絡先とともに掲げてある。看板の日付は今年の四月。半年前に更地になった。

 奏はフェンス越しに更地を見た。五十坪ほど。家族四人が住む一戸建てとしては標準的な広さ。砂利の下に、かつての生活の痕跡は何もない。

 隣家のインターホンを押した。

 出てきたのは五十代の女性だった。エプロン。手に布巾。洗い物の途中だったらしい。

「すみません。隣に住んでいらした方のことでお話を伺いたいのですが」

「どちらさまですか」

「黛と申します。元同僚の者です。お手紙を出したのですが届かなくて。転居先をご存じないかと思いまして」

 嘘ではない。同僚ではないが、同じ組織に壊された人間という意味では、同じ側にいる。

 女性の表情が微かに動いた。警戒ではない。思い出そうとしている。

「宮田さんのこと?」

 宮田。三人目の名前。資料では黒塗りにされていたが、官報の在籍記録から推定した名前と一致した。

「ええ。宮田さんです」

「ずいぶん前に出ていかれましたよ。もう五年……いえ、六年になるかしら。お子さんが二人いて、上の子が中学に入る前だったから」

「引っ越し先は聞いていらっしゃいますか」

「聞いていません。急だったんです。挨拶もなくて。ある朝起きたら、もう誰もいなかった」

 奏は黙って聞いた。

「奥さんとは井戸端でときどき話してたんですけどね。旦那さんが仕事を辞めたって聞いて、少ししたら、もういなくなっていて。近所の人も誰も聞いていないって」

「宮田さん本人とは、話されたことは」

「ほとんどないです。無口な方で。でも——」女性は布巾を握りしめて、少し考えた。「最後に見たのは、引っ越す一週間くらい前だったと思います。夜遅くに、庭に立ってた。暗かったからよく見えなかったけど、携帯で誰かと話してた。声は聞こえなかった。でも、長く話してたのは覚えてる。三十分くらい」

 奏はメモを取らなかった。頭の中に記録した。この女性は目を合わせて話すタイプで、嘘の付き方を知らない人間の目をしていた。

「もうお一つだけ。私の前にも、同じことを聞きに来た方はいらっしゃいましたか」

 女性の目が一瞬だけ動いた。左上ではなく、左下。過去の記憶ではなく、感覚の記憶を探っている。

「……いらっしゃいました。先月です」

 奏の指先が冷えた。十月の風のせいだけではなかった。

「どんな方でしたか」

「男の人。四十くらい。スーツじゃなくて、ジャケットにジーンズだったかしら。丁寧な話し方で、名刺をいただいたんですけど、捨ててしまって。なんだったかな、調査の……」

「身辺調査?」

「ああ、そうかもしれません。宮田さんの昔の知り合いだとおっしゃっていたけど、本当かどうかは分かりません」

 奏は礼を言って辞去した。

 農道を駅に向かって歩いた。風が稲の切り株の上を撫でていく。空は高い。とんびが一羽、旋回している。

 先月。一ヶ月前。

 奏が封筒を受け取ったのは、十日前だ。封筒を送った人間が、先月からこの住所を調べていたのか。あるいは、封筒を送った人間とは別の誰かが、同じ被害者を追っていたのか。

 四十代。ジャケットにジーンズ。身辺調査。

 身辺調査を職業にしている人間は、探偵か、保険調査員か、あるいは——元公安だ。

 奏は駅のホームでペットボトルの水を飲んだ。まだ冷たい。喉が渇いていたことに、今気づいた。朝からコーヒーしか飲んでいなかった。

 電車が来た。乗り込んだ。座席に座ると、膝の上に鞄を置いた。鞄の中に、封筒の資料のコピーが入っている。白紙のページのコピーも。

 窓の外を、田んぼと住宅地が交互に流れていく。

 奏は考えた。

 自分は一人で調べている。だが、自分以外にも調べている人間がいる。その人間は、少なくとも一ヶ月前からこの被害者の行方を追っている。つまり、奏より先に動き始めていた。

 敵か味方かは分からない。

 分からないが、存在する。

 電車が多摩川を渡るとき、西日が水面に当たって白く光った。奏は目を細めた。光が眩しかったのではなく、頭の中で二つの情報を並べていた。封筒を送った人間。宮田家を訪ねた人間。同一人物か、別人か。

 湊裏区のアパートに戻ったのは午後五時だった。靴を脱いで部屋に入る。コーヒーを淹れた。規定量の半分。お湯を注ぐ。薄い琥珀色。

 椅子に座り、ペンを回しながら三秒考えてから、パソコンを開いた。翻訳の仕事を一件始めた。英文のマニュアルを日本語に変換する。指がキーを叩く。画面の文字が増えていく。

 思考の表層で翻訳を処理しながら、脳の奥の別の場所で、更地の砂利と、暗い庭で電話をしていた宮田の影と、一ヶ月前に同じ質問をした男の輪郭を反芻していた。

 翻訳を納品した。

 それから、おにぎりを食べた。昆布。コンビニの袋から出して、包装を剥がして、一口ずつ噛んだ。米が冷たかった。

 もう一つは、明日の朝に取っておく。