小説置き場
再建屋 梶 誠一

第29話「共存」

2,820文字 約6分

きっかけは、検索できなかったことだった。

 詩音は二階でRAFTの瓦解に関する情報を整理していた。三年前のニュース記事。企業の登記変更。人事異動の公開情報。全てデジタルデータとして手元にある。検索できる。構造化されている。

 だが一つだけ足りない情報があった。

 RAFTの拠点があったとされるビルの所有者。登記情報には法人名が記載されている。「南関東事業開発株式会社」。法人番号で検索した。設立は二〇一八年。資本金三百万円。代表取締役の名前は「星野剛」。

 星野剛を検索した。同姓同名が多すぎる。SNSに該当する人物はいない。経歴を特定する手がかりがない。

 デジタルの限界だった。公開情報だけでは、人間の実体に辿り着けないことがある。名前が一般的すぎれば、検索結果の海に沈む。

 詩音は画面の前で三十分止まった。

 止まっている間に、一階から音が聞こえた。紙をめくる音。御手洗の音。

 三日間、御手洗とまともに話していない。コーヒーの時間に降りて、飲んで、戻る。それだけの関係。御手洗も何も言わない。詩音も何も言わない。

 だが今、詩音には紙の中にある情報が必要だった。

 御手洗の取材資料には、九〇年代の金融関連の人名が大量にある。人名と所属と取材日時。三十年分。その中に「星野」の名前があるかもしれない。あるいは「南関東事業開発」に繋がる人物がいるかもしれない。

 検索できない。紙だから。

 詩音は椅子から立ち上がった。階段を降りた。

 一階。御手洗が段ボールの前にいた。いつもの位置。いつもの姿勢。取材メモを一枚一枚読んでいる。

「御手洗さん」

 御手洗が顔を上げた。

「何だ」

「取材資料の中に、星野剛という名前はありますか」

 御手洗は三秒考えた。

「星野。剛。大蔵省か」

「分かりません。今調べている法人の代表者です」

「大蔵省にいた。九六年の取材で一度だけ会った。課長補佐。三十代半ば。金融検査の担当で、住専処理の実務に関わっていた。その後の経歴は追っていない」

 詩音は驚いた。名前を聞いただけで、三十年前の取材相手の所属と役職と年齢と担当業務が出てくる。

「それ、どこかにメモはありますか」

「ある。九六年のノートの三冊目。後ろから五ページ目あたりだ」

 御手洗は段ボールの中から大学ノートを一冊取り出した。表紙に「96-3」と書いてある。後ろのページをめくった。

「ここだ」

 手書きの文字。万年筆。詩音には半分も読めなかった。文字が崩れている。走り書き。取材中に書いたのだろう。

「読めません」

「読めないだろうな。これは俺の速記だ」

 御手洗がページを指で追った。

「星野剛。大蔵省検査部。三四歳。妻帯。住専処理の実務チームに所属。九六年二月に一度だけ取材に応じた。匿名条件。証言内容——不良債権の実態が公表数字より深刻であること。処理を急ぎすぎると構造的な問題が残ること」

 詩音はその情報をスマートフォンにメモした。フリック入力。速い。

「御手洗さん。その星野という人が、二〇一八年に法人を設立しています。南関東事業開発株式会社。RAFTの拠点ビルの所有法人です」

 御手洗の手が止まった。

「RAFTとの関係は」

「まだ確定していません。でも登記上の所有者がこの法人で、代表が星野剛で、その星野が元大蔵省なら——」

「金融官僚が退職後に設立した法人がRAFTの拠点を持っている。偶然じゃないな」

「はい」

 御手洗はノートを閉じた。詩音を見た。

「永瀬さん。このノートに書いてある情報を、あなたのパソコンに入れることはできるか」

 詩音は一瞬、自分の耳を疑った。

「デジタル化、してもいいんですか」

「全部じゃない。人名と所属と取材日時だけだ。証言内容は入れるな。匿名条件の取材だ。情報源の秘匿は守る」

「人名と所属と日時。索引を作るということですか」

「そうだ。索引なら検索できるだろう」

 詩音は頷いた。

「できます。テキストファイルで十分です。名前、所属、日付、ノート番号、ページ番号。それだけあれば、キーワードで引っかけられます」

「やれ」

 御手洗が段ボールから大学ノートを出した。三冊。九六年の一冊目から三冊目。

「まずこの三冊。人名が出てくるページは俺が読み上げる。あなたが打ち込め」

「はい」

 二人の共同作業が始まった。

 御手洗がノートを開く。ページをめくる。人名が出てくると読み上げる。名前。所属。肩書き。取材日。ノート番号。ページ番号。声は低く、一定の速度で、句読点の位置が正確だった。記者が情報を伝達するときの話し方。

 詩音がキーボードを叩く。御手洗の声を聞き、テキストファイルに入力する。入力速度は御手洗の読み上げ速度に合わせた。普段より遅い。だが正確だった。

 一時間で五十三件の人名が索引に入った。

 御手洗が読み上げを止めた。

「休憩」

 コーヒーを淹れた。二人分。

 長机で向かい合って座った。マグカップを手に持った。御手洗のコーヒー。濃い。苦い。詩音は今日、初めてその苦さに慣れている自分に気づいた。

「御手洗さん」

「何だ」

「この前は、すみません」

「何がだ」

「紙の資料を博物館の展示品と言ったこと」

 御手洗はコーヒーを飲んだ。五秒。

「展示品は言い過ぎだったな。だが、あなたの言い分にも一理はあった」

「一理」

「紙のままでは検索できない。それは事実だ。今日、あなたに索引を作ってもらわなければ、星野の名前は段ボールの底に埋もれたままだった」

 詩音は何も言わなかった。

「紙は残る。デジタルは消える。それも事実だ。だが紙が残っても、読める人間がいなければ意味がない。私はあと何年生きるか分からん。私が死んだら、あのノートを読める人間はいなくなる。速記の癖は私だけのものだ」

「だから索引が必要なんですね」

「そうだ。紙は保存する。索引はデジタルで作る。両方いる。片方だけじゃ足りない」

 詩音はマグカップを両手で包んだ。温かい。

「明日も続きをやりますか」

「明日は残りの七冊。全部で十冊ある。三日で終わるか」

「終わらせます」

 御手洗が立ち上がった。段ボールの前に戻った。

 詩音は二階に上がった。ノートパソコンの前に座った。索引ファイルを開いた。五十三件の人名。名前。所属。日付。ノート番号。ページ。

 構造化されたデータ。検索可能な情報。

 だがそのデータの元になったのは、三十年前の手書きのノートと、五十一歳の記者の記憶だった。紙の上のインクを読めるのは御手洗だけで、その声を聞いて詩音が打ち込んだ。

 アナログとデジタルの結節点に、二人の人間がいた。

 詩音は索引ファイルの一行目を見た。

「星野剛 大蔵省検査部 課長補佐 1996/02/14 96-3 p.47」

 この一行のために、三日間の沈黙があった。無駄ではなかったと、詩音は思った。効率は悪かった。だが無駄ではなかった。

 効率と無駄は、別のものかもしれない。

 詩音はその考えを、まだうまく言語化できなかった。できなくてもいいと思った。索引ファイルに名前をつけた。「mitarai_index_01.csv」。

 御手洗の名前が、ファイル名に入った。