二階の作業場は寒かった。
灯油ストーブは一階にある。熱は上に昇るはずだが、二階まで届く頃には薄まっている。詩音はパーカーのフードを被り、手袋の指先を切ったものをはめて、キーボードを叩いていた。
ノートパソコンの画面が二つ並んでいる。左の画面にはファイル一覧。右の画面にはテキストエディタ。詩音はRAFTの瓦解に関する情報を整理していた。二年間かけて集めた断片。ニュースサイトのアーカイブ。匿名掲示板の書き込み。企業の登記情報の変更履歴。
情報の海は広い。だが詩音には泳ぎ方がある。検索。フィルタリング。ソート。デジタルの情報は構造化できる。構造化すれば、パターンが見える。
階段を上がってくる足音がした。重い。ゆっくり。御手洗だ。桐嶋なら軽い。奏なら一定のリズム。御手洗の足音は一段ごとに間がある。膝か腰が悪いのかもしれない。
御手洗が二階に来た。段ボールを一つ抱えている。
「これ。一階の資料のうち、九〇年代の金融関連。奏が確認したいと言っている」
段ボールを詩音のデスクの横に置いた。床に。
「……ここに置くんですか」
「他にどこがある」
詩音は段ボールを見た。蓋が開いている。中にノートが数冊と、封筒が束になって入っている。手書き。万年筆のインクが褪せている。紙が黄ばんでいる。三十年前の紙。
「これ、デジタル化したほうが良くないですか」
「デジタル化」
「スキャンして、OCRかけて、テキストデータにする。そうすれば検索できます。紙のままだと一枚一枚めくって探すしかない」
御手洗が詩音を見た。視線が合った。詩音は反射的に目を逸らした。だがすぐに戻した。技術の話をしているとき、詩音は視線を逸らさない。
「検索できないと困る、ということか」
「困ります。人名とか日付とか、キーワードで引っかけられないと、紙の山から目的の情報を探すのに何時間もかかる。時間の無駄です」
御手洗はパイプ椅子を引いて座った。段ボールの横に。
「時間の無駄か」
「はい」
「永瀬さん。この資料は三十年前のものだ。三十年間、紙のまま残った。デジタルデータならどうだった。三十年前のフロッピーディスクを今読めるか。ハードディスクは五年で壊れる。クラウドは会社が潰れれば消える。紙は残る」
詩音のキーボードを叩く指が止まった。
「それは保存の話です。活用の話をしてるんです。保存されていても検索できなければ使えない」
「使えないのはあなたの探し方の問題だ。紙の資料は検索するものじゃない。読むものだ。一枚一枚読んで、文脈の中で意味を取る。検索窓にキーワードを入れて出てくるものだけが情報じゃない」
詩音は口を開きかけて、閉じた。
開き直した。
「紙の資料なんて検索できない。それは活用可能な情報じゃない。アーカイブです。博物館の展示品と同じです」
御手洗の目が細くなった。
「博物館」
「保存する価値はあるかもしれない。でも今すぐ使える形になっていない。使いたいなら変換が必要です。アナログからデジタルへ」
「あなたはデジタルしか信用しないのか」
「信用の問題じゃなくて効率の問題です」
「効率」
御手洗はその一語を噛むように繰り返した。椅子から立ち上がった。段ボールの蓋を閉じた。
「この資料は一階に戻す」
「待ってください。奏さんが確認したいと」
「奏が確認したいなら奏が一階に来ればいい。この資料を二階に置く必要はない」
御手洗が段ボールを持ち上げた。階段を降りていった。足音が遠くなった。
詩音は画面を見つめた。左のファイル一覧。右のテキストエディタ。自分の世界。構造化された情報の世界。
階段を降りる足音がもう一つ聞こえた。軽い。桐嶋だ。一階で何か話している。声は聞こえるが、言葉は聞き取れない。壁とコンクリートが音を吸っている。
五分後。階段を上がってくる足音。一定のリズム。奏だ。
奏が二階に来た。手ぶらだった。
「詩音さん。御手洗さんと何かありましたか」
「別に。資料のデジタル化を提案しただけです」
「御手洗さんの反応は」
「却下されました。紙は残る、デジタルは消える、読むものだ、って」
奏は三秒黙った。
「御手洗さんの資料は御手洗さんのものです。扱い方は御手洗さんが決めます」
「でも効率が悪い」
「効率は判断基準の一つです。唯一の基準ではありません」
詩音は何も言わなかった。奏の言葉は正しい。正しいが、腹が立つ。正しくて腹が立つ言葉は、詩音にとって最も処理しにくい情報だった。
奏が降りていった。
詩音は画面に戻った。キーボードを叩いた。RAFTの情報整理を続けた。検索可能なデータベース。構造化されたフォルダ。タグ付けされたファイル。自分の世界。
だが指が滑る。タイプミスが増えた。一時間で三回もバックスペースを連打した。普段はしない。
夕方。一階から御手洗の声が聞こえた。
「コーヒー」
いつもの一言。毎日同じ時間に同じ声で呼ぶ。
詩音は降りなかった。
五分経った。階段の下から桐嶋の声。
「永瀬。冷めるぞ」
詩音は椅子から立ち上がった。階段を降りた。
一階の長机に、紺色のマグカップが置いてあった。湯気が立っている。御手洗のコーヒー。濃くて苦い。
詩音はマグカップを手に取った。両手で包んだ。温かい。二階よりずっと温かい。灯油ストーブの熱と、コーヒーの温度と、四人分の体温が混ざった空気。
御手洗は段ボールの前に座って、取材メモを読んでいた。一枚一枚。ゆっくり。紙をめくる音が静かに響いていた。
詩音はその音を聞きながらコーヒーを飲んだ。苦い。舌の奥に残る苦味。嫌いではない。だが自分では絶対にこの濃さでは淹れない。
奏がノートに何か書いていた。桐嶋は窓際に立って外を見ていた。
四人が同じ空間にいて、それぞれ別のことをしている。会話はない。
詩音はマグカップを流し台に持っていった。洗った。棚に戻した。紺のカップ。白いカップの隣。
二階に戻った。
画面の光がまた顔を照らした。キーボードを叩く。指は滑らなくなっていた。コーヒーの温度が指を温めたからかもしれない。
それだけだ。
だが詩音は、御手洗が紙をめくる音を、まだ耳の奥に残していた。一枚一枚。ゆっくり。検索では見つからない速度で、何かを探している音。あるいは、検索という概念が存在しなかった時代の、情報との向き合い方。
詩音はその音が嫌いではなかった。嫌いではないということを、まだ認める気はなかった。
画面に向き直った。検索窓にキーワードを入力した。
効率のいい世界に戻った。