小説置き場
再建屋 梶 誠一

第26話「拠点」

2,820文字 約8分

十二月十五日。午前八時。

 御手洗は一階の引き戸を開けた。シャッター式の引き戸は右半分が錆びて動かない。左半分だけを肩で押し開ける。毎朝の動作だ。二十年前は両手で軽く開いた。今は肩を使う。

 一階はかつて印刷場だった。コンクリートの床に輪転機の台座跡が残っている。壁沿いに段ボールが二十箱。金融関連の取材資料だけを残し、それ以外は二階の棚に分類した。

 御手洗は箒を手に取った。床を掃く。港が近いから砂が入る。毎朝掃いても翌朝にはまた溜まる。

 掃き終えた床に、長机を二つ。廃業した学習塾から桐嶋が運んできたものだ。天板に「3-A」と油性ペンで書いてある。椅子を四脚。パイプ椅子。御手洗は自分の椅子にだけ座布団を載せた。五十一歳の腰は正直だ。

 九時。桐嶋が来た。

 内房線の始発で東京から来ている。片道一時間半。毎回同じ電車ではない。乗る車両も変える。元公安の習慣だと御手洗は理解している。

 桐嶋は一階を見回した。長机。パイプ椅子。壁の段ボール。

「作戦室、というには寒いな」

「灯油ストーブが二階にある」

「持ってくる」

 桐嶋が階段を上がった。足音が軽い。四十四歳の元警察官の体は、まだ階段を駆け上がれる。

 ストーブに点火した。石油の匂い。五分で空気が温まり始めた。コンクリートの床は冷たいままだった。

 十時。詩音が来た。

 御手洗が詩音に会うのは三度目だった。画面の前では饒舌だが、人間の前では声が小さい。

 詩音はリュックサックを背負っていた。大きい。中身はノートパソコン二台と外付けハードディスクとLANケーブルの束。桐嶋が「荷物、持つか」と聞いた。詩音は首を横に振った。

「二階、使っていいですか」

 御手洗に向けた言葉だった。視線は合わなかった。

「使え。電源は壁のコンセントが四口。容量は確認していない」

「確認します」

 詩音が階段を上がった。桐嶋の足音より重い。リュックの分だ。

 十時半。二階から詩音の声が降りてきた。

「電源、大丈夫です。二十アンペア。ノートパソコン二台とモニター一台なら問題ない」

 桐嶋が御手洗を見た。

「エンジニアだな」

「エンジニアだ」

 十一時。奏が来た。

 四人の中で最後に来た。内房線で来ているはずだが、時刻は桐嶋より二時間遅い。奏は始発には乗らない。翻訳の納品作業を朝のうちに済ませてから来る。生活の糧を手放していない。そこが奏の堅実さだと御手洗は思う。あるいは、余裕のなさだ。

 奏は一階に入り、長机と椅子を見た。壁の段ボールを見た。灯油ストーブを見た。

「御手洗さん。ストーブの灯油代は経費として記録します」

「好きにしろ」

「経費帳簿を作ります。全員の交通費と消耗品費を記録します」

 桐嶋が口元だけで笑った。声は出さなかった。

「帳簿屋だな」

 奏はA5のノートを長机に置いた。百円均一のノート。表紙に「経費」と書いてある。ボールペン。青インク。

 御手洗はコーヒーを淹れた。

 四人分。

 豆は三十二グラム。四人分。一人あたり八グラム。湯温は八十五度。沸騰してから二分待つ。体で覚えている。

 ドリッパーにフィルターを載せ、豆を入れた。細口のケトルから湯を注いだ。最初は少量。豆が膨らむのを待つ。二十秒。円を描くように注ぐ。三分。

 四つのマグカップに注いだ。御手洗の白。奏の定位置のカップ。桐嶋の茶色と詩音の紺は、先週御手洗が百円均一で買った。

 二階に声をかけた。

「コーヒー」

 詩音が降りてきた。階段を降りる足音が、上がるときより軽い。リュックを下ろしたからだ。

 四人が一階の長机を囲んだ。パイプ椅子に座った。マグカップを手に持った。

 御手洗のコーヒーは苦い。いつもの苦さ。奏はそれを黙って飲んだ。桐嶋は一口飲んで「濃いな」と言った。詩音はマグカップを両手で包んで、温もりだけを受け取っているように見えた。

 十二月の朝日が窓から差し込んでいた。埃が光の中で舞っていた。灯油ストーブの熱がゆっくりと部屋に広がっていた。

 四人で何かを始める、という状態を、御手洗は三十年ぶりに経験していた。『公器』の編集部は六人だった。今は四人。元国税局調査官と、元公安警察と、元ITエンジニアと、元記者。四人の「元」がいる。

 奏がノートを開いた。

「確認します。一階を作戦室として使います。会議と資料の保管。二階は詩音さんの作業場。デジタル関連の作業は全て二階で行います」

 桐嶋が頷いた。詩音も頷いた。御手洗は何も言わなかった。同意の沈黙だ。

「セキュリティについて。桐嶋さん」

「物理面は俺が見る。出入りの記録。周辺の定期巡回。建物の施錠確認。デジタル面は永瀬に任せる」

 詩音が小さく頷いた。

「ネットワークは自分のモバイルルーターを使います。建物の回線は使いません。通信ログが残るので」

 奏がノートに書いた。青いインク。箇条書き。

「活動時間。原則として午前十時から午後五時。それ以外の時間は各自の判断で。ただし、夜間の単独行動は事前にチャットで報告すること」

 桐嶋が「了解」と言った。詩音は頷いた。御手洗はコーヒーを飲んだ。

 奏がノートを閉じた。

「今日の作業は、一階の段ボールの再分類です。御手洗さんの取材資料のうち、調停機構に関連する可能性があるものを抽出します。御手洗さんに内容の判断をお願いします」

「分かった」

 四人が動き始めた。

 御手洗は段ボールの前に座った。取材メモを取り出し、関連するものとしないものに分けた。三十年分の記憶が手を動かしている。

 奏は分けた資料を日付順に並べた。帳簿を整理する手つきだった。

 桐嶋は建物の周囲を歩いた。出入り口、窓の位置、死角の有無。二十分かけて一周し、ノートに図を描いた。

 詩音は二階でキーボードを叩いていた。

 昼。御手洗がコーヒーを淹れ直した。四人分。

 奏がコンビニのおにぎりを出した。桐嶋はサンドイッチ。詩音はカロリーメイト。御手洗は食パンをトースターで焼き、バターを塗った。四人が長机で昼食を取った。会話はほとんどなかった。咀嚼の音と灯油ストーブの燃焼音だけが響いていた。

 午後。作業が続いた。

 夕方五時。窓の外が暗くなった。十二月の日没は早い。

 奏が立ち上がった。

「今日はここまでにします。御手洗さん、分類した資料の数を確認させてください」

「関連ありが十四点。判断保留が八点。関連なしが三十二点」

 奏がノートに記録した。

「明日は判断保留の八点を精査します。御手洗さん、お時間いただけますか」

「明日も同じ時間に来い」

 桐嶋と奏と詩音が帰った。三人の足音が階段を降り、引き戸を開け、外に出た。

 御手洗は一人になった。

 長机の上にマグカップが四つ残っている。全部洗った。棚に戻した。四つのカップが一列に並んだ。白。定位置のカップ。茶色。紺。

 灯油ストーブを消した。

 石油の匂いが薄れていく中で、コーヒーの残り香だけが一階に漂っていた。

 明日も四人分の豆を計量する。三十二グラム。その事実が、御手洗の日常を書き換えていた。一人分の八グラムから、四人分の三十二グラムへ。

 窓の外。十二月の夜。港の方角に、漁船の灯りが一つだけ見えた。