小説置き場
再建屋 梶 誠一

第25話「参入」

2,072文字 約5分

御手洗は五度目の訪問を待たなかった。

 自分から電話をかけた。黛奏の携帯番号は、三度目の訪問時にメモを残していった。走り書きの十一桁。紙は事務用品の裏紙で、インクはボールペン。万年筆ではない。この女は記録のために書くのであって、美しく書くためではないのだと、御手洗はその紙から読み取っていた。

 午前九時。電話した。

「黛さんですか」

 三秒の間。

「御手洗さん」

「段ボール、片づけるの手伝ってくれるなら」

 沈黙。五秒。

「それは参加していただけるということですか」

「片づけを手伝ってもらう。それだけだ」

「何時に伺えばいいですか」

「午後。コーヒーは淹れておく」

 電話を切った。

 午後一時。奏が来た。桐嶋も一緒だった。

 旧社屋の三階。段ボールが十二個残っている。御手洗はそのうちの四個を壁際から部屋の中央に移していた。

「この四箱。九〇年代の取材資料のうち、金融関連のものです。残りは時代が違うか、テーマが違う」

 奏が箱のラベルを見た。「95年 金融 未使用」「96年 不良債権 予備」「97年 資産管理 断片」「98年 構造 仮説」。

「見ていいんですか」

「見ろ。だが持ち出すな」

 奏が箱を開けた。桐嶋は部屋の隅に立って、窓の外を見ていた。見張りのように。だが何を見張っているのか、御手洗には分からなかった。

 御手洗はコーヒーを淹れた。三人分。豆は二十四グラム。湯温は八十五度。抽出時間は三分。計量は体で覚えている。温度計は使わない。

 奏が取材メモを読んでいった。速い。一ページを十五秒で読む。帳簿を読む速度だ。数字と固有名詞を拾い、文脈は後で組み立てる。記者の読み方とは違う。記者は文脈から読む。帳簿屋は数字から読む。

 一時間後。奏がメモを箱に戻した。

「確認します。御手洗さんの取材で、信用破壊の手法を証言した人間は四人。全員が金融関連の公的機関に所属していた。全員が九四年から九六年の間に辞職し、全員が再就職に失敗している」

「そうだ」

「四人のうち、現在も生存している方は」

「確認していない。三十年経っている。連絡先も変わっているだろう」

「探すことはできます」

「探してどうする」

「三十年前に出せなかった記事を、別の形で出す。記事としてではなく、証拠として」

 御手洗はコーヒーを飲んだ。苦い。いつもと同じ苦さ。

「黛さん。一つ聞いていい」

「どうぞ」

「あなたの防御手順書。六人分あると言ったな。五人目までは配り終えた。六人目は」

「まだです」

「河野という人間か」

 奏の手が止まった。箱の蓋を閉じようとしていた手が。

「どこでその名前を」

「記者だった。人の名前を聞き出すのは得意だ。あなたの訪問の合間に、少し調べさせてもらった。あなたと同じ国税局にいた人間で、現在は連絡がつかない状態の人物。河野という苗字までは特定できた」

 奏は三秒黙った。

「確認します。調べたのは公開情報からですか」

「公開情報だけだ。官報と人事異動の記録。閲覧に制限はない」

 桐嶋が窓際から振り返った。御手洗を見た。元刑事の目だ。

「記者の腕は鈍っていないようですね」

「鈍っていたら、三十年分の段ボールを整理する意味がない」

 奏がコーヒーを飲んだ。三秒の間。

「御手洗さん。河野さんへの防御手順書の郵送方法について、ご相談があります」

「郵送でいいのか。直接渡すべきでは」

「直接の接触は危険です。私たちが河野さんに近づけば、調停機構がそれを察知する可能性がある」

「だから郵送か。だが郵送なら、中身を見ずに捨てる可能性がある」

「はい。だから、中身を読ませる工夫が必要です」

 御手洗は考えた。封筒の書き方。差出人。宛名の字体。開封させるための心理的な仕掛け。

 これは取材の技術だ。取材対象に封筒を開けさせ、資料を読ませ、会ってもらう。三十年間の技術の蓄積がある。

「御手洗さん。一つ提案していいですか」

「何だ」

「防御手順書の封筒。差出人を御手洗さんの名前にしてもらえませんか。『公器』の元記者の名前なら、官僚出身の河野さんは開封する可能性が高い」

 御手洗はマグカップをテーブルに置いた。

「私の名前を使うということは、私がこの作戦に参加しているということを機構側に知らせることになる」

「はい。そのリスクがあります」

「分かった。使え」

 奏が御手洗を見た。三秒。

「理由を聞いてもいいですか」

「理由はない。段ボールを片づけるのに理由がないのと同じだ」

 御手洗はコーヒーを飲み干した。マグカップを流し台に持っていき、洗った。

 理由はある。だが語らない。

 三十年前に出さなかった記事。胸に刺さったままの棘。棘を抜く方法が、この女と一緒に動くことなのかどうかは分からない。だが段ボールの中に原稿を沈めたまま死ぬのは嫌だった。

 それは理由と呼べるかもしれないし、呼べないかもしれない。

 御手洗は窓の外を見た。十二月の空。雲が切れて、日差しが一筋だけ差し込んでいた。

 奏と桐嶋が帰った後、御手洗は段ボールを一つ開けた。「95年 金融 未使用」。

 封筒を取り出した。中のA4の原稿用紙。十二枚。

 最後の一行を読んだ。「本件の調査には今後も継続して取り組む予定である」。

 三十年ぶりに、その一行が嘘ではなくなった。