小説置き場
再建屋 梶 誠一

第24話「三十年前」

1,672文字 約4分

雨が上がった日の夜、御手洗は段ボールの一つを開けた。

 底のほうに沈んでいた箱だ。ラベルには「95年 金融 未使用」と書いてある。未使用。掲載されなかった取材資料。三十年間、箱の底で眠っていた。

 箱を開けると、黄ばんだ封筒が出てきた。中にA4の原稿用紙が十二枚。手書き。万年筆のインクが褪せかけているが、読める。

 御手洗の字だ。三十年前の御手洗の字。今よりも線が力強く、角が立っていた。若い字だ。

 原稿の見出し。「住専問題の傍らで 信用破壊の構造」。

 読み始めなかった。読まなくても、全文を覚えている。三十年間、一字も忘れていない。忘れようとしたが、忘れられなかった。記者の記憶は都合よく消えない。

 一九九五年。住専問題が世間を騒がせていた頃。御手洗は三十一歳で、『公器』の記者として住専の取材をしていた。

 取材の過程で、住専問題とは別の構造に触れた。

 金融機関の不良債権処理に関わる公的機関の職員が、突然辞職していた。複数の機関で。同時期に。辞職の理由は「一身上の都合」。だが辞職後の経歴を追うと、全員が再就職に失敗していた。面接は受けている。書類は通る。だが最終面接で必ず落ちる。

 偶然ではなかった。

 御手洗は辞職した職員の一人に接触した。匿名を条件に話を聞いた。

 「辞表を出したんじゃない。辞表を出すように仕向けられたんだ」

 その職員が語った手法は、暴力でも脅迫でもなかった。上司から信頼を失わせる工作。同僚との関係を壊す情報操作。メディアへの匿名リーク。全てが合法の範囲内で、全てが正確に、ある一人の人間の社会的信用を削り取っていった。

 「誰がやったのか」

 「分からない。分かったら、私はもっと前にやり返している。でも手口が統一されている。個人じゃない。組織的だ」

 御手洗はその取材を三ヶ月続けた。辞職した職員を四人見つけた。全員が同じパターンだった。暴力なし。脅迫なし。だが社会的に消えている。

 原稿を書いた。十二枚。見出し、導入、取材経緯、事実の積み上げ、考察。記者として最良の仕事だった。

 編集長に見せた。編集長は黙って読んで、原稿を返した。

 「載せよう」

 載せる段階まで進んだ。校正が終わり、レイアウトが決まり、印刷所に入稿する前日だった。

 御手洗の自宅の電話が鳴った。

 「御手洗さん。お子さん、三歳でしたね。幼稚園、来年から通うんでしたっけ」

 男の声。丁寧。穏やか。名前を名乗らなかった。

 「お子さんの幼稚園の入園申し込み、大変だったでしょう。倍率が高い園ですものね」

 御手洗は受話器を握ったまま動けなかった。

 「記事、拝見しました。よくお調べになっていますね。ただ、あの記事が出ると、あなたの信用に影響があるかもしれません。息子さんの入園にも」

 それだけだった。脅迫ではない。具体的な害を予告していない。ただ、事実を並べただけだ。子どもの年齢。幼稚園の名前。倍率。

 事実の羅列が、脅迫よりも重かった。

 御手洗は翌朝、編集長に電話した。

 「記事を落としてほしい」

 編集長は三秒黙った。

 「分かった」

 それだけだった。理由を聞かなかった。編集長も分かっていたのだろう。記事を載せれば何が起きるか。

 原稿は引き出しにしまった。三年後に段ボールに入れた。段ボールは箱の底に沈めた。三十年間、そこにあった。

 御手洗は原稿の最後のページを見た。

 最後の一行。「本件の調査には今後も継続して取り組む予定である」。

 取り組まなかった。継続しなかった。息子が育ち、妻と離婚し、雑誌が廃刊になり、段ボールだけが残った。三十年間、胸に刺さったまま抜かなかった棘。

 今日、見知らぬ女が来て、その棘に触れた。

 黛奏。帳簿を読む人間。人の嘘を見抜く目。だが人の痛みに触れたとき、加減を知らない。

 御手洗は原稿を封筒に戻し、段ボールに戻した。

 コーヒーを淹れた。一人分。豆を多めに。苦く。

 窓の外は暗くなっていた。十二月の夜。

 三十年前の電話の声を、御手洗はまだ覚えている。声の高さ。抑揚。丁寧さ。あの声を忘れるつもりはない。忘れれば、記事を出さなかった自分を許してしまう。

 許さない。まだ。

 段ボールの底に、原稿は沈んでいる。三十年分の重さの下に。