十二月の湊裏区は風が冷たく、埋め立て地の先にある港から運ばれてくる潮の匂いが、ビルの隙間を通り抜けるたびに少しずつ薄くなっていった。
奏は旧社屋を三日後に再訪した。
前回は何も提案していない。段ボールを見て、御手洗の背中を見て、帰った。桐嶋は「手ぶらで帰っていいのか」と言ったが、奏は「確認に来ただけです」と答えた。
確認したのは三つだった。御手洗が一人でいること。取材資料を捨てていないこと。記者の習慣を維持していること。
三つ目が重要だった。段ボールのラベル。手書き。年号と取材先。几帳面に、正確に。廃業した記者がそこまでやる理由は一つしかない。まだ終わっていないと思っている。自分では気づいていないかもしれないが。
旧社屋の三階。ドアを叩いた。返事はなかった。開けた。
御手洗が段ボールの前にいた。前回と同じ位置。同じ姿勢。椅子に座り、箱から取材メモを出して、読んで、別の箱に分類していた。
コーヒーの匂いがした。前回はなかった。デスクの上にドリッパーとサーバーが置いてある。豆の袋。ペーパーフィルター。温度計はない。
「淹れたてですか」
「三十分前だ」
「いただけますか」
御手洗が立ち上がり、棚からマグカップを出した。一つだけ。奏の分。自分のカップには既にコーヒーが残っている。
注がれたコーヒーは濃かった。奏の基準よりも濃い。豆の量が多いのか、抽出時間が長いのか。苦味に深みがある。
「美味しい」
「記者をやめてからコーヒーだけは上手くなった。時間があるから」
奏はコーヒーを飲みながら、三秒黙った。答えを選んでいるのではなく、切り出し方を測っていた。
「御手洗さん。単刀直入に言います」
「どうぞ」
「私たちは、調停機構という組織と戦っています。暴力ではなく信用破壊で人を消す秘匿組織です。御手洗さんには、その戦いに参加していただきたい」
御手洗のコーヒーカップが、唇に触れたまま止まった。三秒。五秒。カップを下ろした。
「あなたには無理です」
奏は表情を変えなかった。手はマグカップの取っ手を握ったまま。動いていない。
「無理。その理由を確認してもいいですか」
「あなたの年齢。二十九か三十か。若い。調停機構は戦後七十年の組織だ。あなたが生まれる前から動いている。構造の深さが違う。個人で挑んで勝てる相手じゃない」
「個人ではありません」
「何人だ」
「今は三人です。御手洗さんが入れば四人」
「四人で七十年の組織と戦う。無理だ」
七秒の沈黙。御手洗の手がカップの縁をなぞった。無意識の動作。取材対象を前にしたときの癖かもしれない。
「それでも聞きますが」
奏は言った。
「御手洗さんが三十年前に出さなかった記事。あれは調停機構に関するものではありませんか」
御手洗の手が止まった。
止まった。手が。カップの縁をなぞる指が、動きを止めた。
奏はそれを見た。御手洗という人間が、三十年前の記事の話題で手を止めることを確認した。
「黛さん」
「はい」
「その話は、しない」
「分かりました。今日は」
「今日も。明日も。しない」
御手洗が立ち上がった。段ボールの前に戻った。取材メモを手に取り、ページをめくり始めた。背中で会話を終わらせるやり方だった。
奏はコーヒーを飲み干した。マグカップを流し台に持っていき、洗った。自分で洗った。御手洗は振り返らなかった。
「また来ます」
「好きにしろ」
旧社屋を出た。階段を降りて外に出ると、桐嶋が電柱の横に立っていた。
「どうだった」
「断られました」
「想定通りか」
「想定通りです。ただ、一つ確認できました」
「何を」
「御手洗さんは、三十年前に記事を出さなかった理由をまだ抱えています。抱えたまま段ボールを整理しています。整理しているということは、手放す準備をしているかもしれません」
桐嶋は何も言わなかった。
十二月の風が吹いた。港の方角から。潮の匂いが薄くなった空気の中を、二人で駅に向かって歩いた。
奏のポケットの中に、コーヒーの温もりがまだ残っていた。マグカップを洗ったとき、指に残った湯の温度。御手洗のコーヒーは、濃くて、苦くて、丁寧だった。
記者をやめた人間のコーヒーが丁寧であること。そのことを、奏は帳簿のように記録していた。