小説置き場
再建屋 梶 誠一

第21話「旧稿」

1,492文字 約3分

御手洗新は段ボールを開けていた。

 築四十年のビルの三階。旧社屋と呼ぶには小さすぎる二部屋のオフィス。かつて月刊の調査報道誌『公器』の編集部だった場所で、今は段ボールと書棚と埃だけが残っている。

 五十一歳。白髪が増えた。背中が丸くなった。十年前の写真と比べれば、別人に見えるだろう。十年前はまだ取材に出ていた。今は段ボールを開けている。

 箱の中身は取材メモだった。手書き。大学ノートに記したフィールドノートが八冊。テープ起こしの原稿が束になっている。九〇年代の金融危機に関する取材資料で、当時は記事になるはずだった。ならなかった。

 隣の箱には廃刊通知書が入っていた。

 『月刊 公器』廃刊のお知らせ。発行元の出版社から届いた通知書のコピー。日付は二〇二二年四月一日。部数減少と広告収入の激減を理由とする、一枚の書面。三十年続いた雑誌が一枚の紙で終わった。

 御手洗はその通知書を手に取った。紙の端が少し黄ばんでいる。三年分の経年変化。折り目が一つだけある。二つ折りにして封筒に入れたときのものだ。

 通知書を段ボールに戻した。

 十一月の午後。窓から差し込む光が、部屋の埃を照らしている。光の中で埃が舞っていて、それが段ボールを開けるたびに立ち上がる。

 階段を上がってくる足音があった。二人分。

 御手洗は振り返らなかった。段ボールの中の取材メモを一冊取り出し、ページをめくっていた。

 ドアが開いた。

「御手洗さんですか」

 女の声。若い。二十代後半か三十代前半。声に感情の起伏が少ない。抑制している声。

「そうだが」

「黛奏と申します。お時間をいただけますか」

 御手洗は取材メモから目を上げなかった。

「何の用だ」

「ご相談です」

「記者は廃業した」

「記者としてのご相談ではありません」

 三秒の間があった。御手洗ではなく、奏の側に。答えを選んでいるのだろう。この女は即答を避けるタイプだと御手洗は思った。

「段ボール、多いですね」

「三十年分だ」

「三十年分の取材資料」

「取材資料と呼べるものは少ない。大半は屑だ。記事にならなかった屑が三十年分」

 奏が部屋に入ってきた。もう一人、男がいた。三十代後半。姿勢がいい。足音が軽い。元公務員の体の動き方ではない。

「連れの方は」

「桐嶋です。同僚のようなものです」

 同僚のようなもの。曖昧な表現だ。御手洗は曖昧さを嫌う。記者は曖昧を嫌うものだ。

「段ボール、整理しないんですか」

「整理している。今している」

「一人で」

「一人だ。他に誰がいる」

 奏が部屋を見回した。段ボールが壁沿いに積まれている。高いところで五段。低いところでも三段。中身のラベルは手書きで、年号と取材先が記されている。

「きれいなラベルですね」

「記者の習慣だ。整理しなければ使えない」

「使うんですか。まだ」

 御手洗は初めて奏を見た。

 小柄な女だった。髪を後ろで束ねている。化粧は薄い。服装は地味で、灰色のジャケットに黒いパンツ。手が細い。帳簿を扱う手だと御手洗は思った。爪が短く切りそろえてある。

 目が鋭い。取材対象を見る記者の目に似ている。だが記者とは違う。記者は相手の話を引き出す。この女の目は、相手の嘘を読んでいる。

「使う予定はない。だが捨てられない」

 奏は何も言わなかった。五秒の沈黙。それから部屋を出て行った。桐嶋も無言で続いた。

 御手洗は段ボールの前に戻った。取材メモをめくった。九六年の取材ノート。相手先は大蔵省の課長補佐。名前の横に「嘘。目を合わせるタイプ」と走り書きがある。

 自分が書いたメモだ。二十九年前の自分が。

 階段を降りていく足音が遠くなった。

 御手洗は窓の外を見た。十一月の空。雲が低い。

 段ボールの中に、まだ開けていない箱が十二個ある。