小説置き場
再建屋 梶 誠一

第2話「欠落」

4,136文字 約9分

黛奏は赤ペンの印を数えた。十四枚の資料を床に並べ、対応する箇所に番号を振る作業を三日続けていた。テーブルの上ではノートパソコンが翻訳の仕事を待っているが、納期は明後日だ。まだ間に合う。

 赤ペンの番号は三十七まで増えていた。

 四件の被害者に共通する手順は六つ。ステップ一から四が詳細に記述され、ステップ五は省略、ステップ六は「接触停止」。この構造は奏自身の経験とも正確に一致している。

 共通点は手順だけではなかった。

 これは確認したいんだが、と奏は独りごちた。紙の裏にボールペンで時系列を書いた。

 文部科学省の元課長補佐。発見から処理完了まで、四ヶ月。国土交通省の元技官。三ヶ月半。農林水産省の元係長。五ヶ月。総務省の元主査。二ヶ月。奏自身。三ヶ月。

 処理にかかる期間は二ヶ月から五ヶ月。ばらつきがある。これは対象者ごとに手順をカスタマイズしていることを意味する。テンプレート的な妨害工作ではない。一人一人の弱点を調査し、最も効率的な崩し方を設計している。

 設計。

 奏はその言葉を頭の中で転がした。設計という言葉が適切だった。これは攻撃ではない。解体だ。建物の解体と同じように、まず構造を調べ、荷重のかかる柱を特定し、順番に外していく。倒壊するのは最後だ。過程には暴力がない。証拠もない。被害者が「壊された」と認識する頃には、すべてが終わっている。

 もう一つの共通点。

 五人全員が、省庁の職員だった。

 奏は資料の一枚目に戻った。二〇一七年三月十四日。整理番号〇四一八―B。この書式はどの官庁にも属さない。奏は十年分の行政文書のフォーマットを記憶している。国税局時代、書類の書式だけで発行元と時期を特定する訓練を受けた。この書式は、どこのものでもない。

 行政の外にいて、行政の内部に干渉できる組織。

 そのような組織の存在を示す公開情報は、ない。

 奏は国立国会図書館のデジタルアーカイブを開いた。三日前から始めた検索の続き。「戦後 行政機構 非公開組織」では何も出てこなかった。当然だ。非公開組織が公開データベースに名前を残すはずがない。

 方法を変える。

 組織そのものを探すのではなく、組織が残した痕跡を探す。

 奏は四件の被害者の名前を検索した。名前は黒塗りにされているが、経歴の要素から特定は可能だ。出身大学、入省年度、配属先、担当案件の時期。これらを組み合わせれば、候補は一人に絞れる。

 国立国会図書館には、官報のアーカイブがある。官報には人事異動が掲載される。入省、昇進、退職。公務員の人生は官報に記録されている。

 一人目。文部科学省の元課長補佐。二〇一八年三月三十一日付で退職。退職理由は「一身上の都合」。

 二人目。国土交通省の元技官。二〇一九年六月十五日付で退職。同じく「一身上の都合」。

 三人目。農林水産省の元係長。退職記録が見つからない。在籍記録はあるが、退職の官報告示がない。異動記録が途中で途切れている。

 奏の手が止まった。

 在籍していた人間の退職記録がない。これは通常ありえない。公務員の退職は官報に掲載される義務がある。記録が存在しないということは——。

 記録が削除された。

 あるいは、退職の手続き自体が通常のルートを経ていない。

 三秒の間があった。奏はメモ帳を開いてペンを取った。三人目の最後の異動記録の日付を書く。二〇二〇年四月一日。それ以降、この人物は行政システム上で「存在しない」状態になっている。

 四人目。総務省の元主査。退職記録あり。二〇二二年九月三十日。「一身上の都合」。

 五人目は奏自身だ。懲戒免職。二〇二四年十月。官報に名前が載った。恥をかくのは対象者だ。

 奏はコーヒーを淹れた。規定量の半分の粉。お湯を注ぐ。薄い琥珀色。三日で一瓶を使い切るペースだったのが、封筒が届いてからは二日で一瓶になっている。

 四件の被害者のうち、三人目だけが異質だった。

 退職記録がない。所在不明。家族が転居。

 奏は封筒の資料をもう一度読み返した。三人目に関する記述。「補助金の不正受給を調査。処理後、家族が転居。本人の所在不明」。

 所在不明。

 他の三人は追跡可能な状態で「処理済み」になっている。うつ病、入院、誹謗中傷。社会的に機能不全に陥っているが、物理的には存在している。三人目だけが、文字通り消えている。

 なぜ三人目だけ消えたのか。

 二つの仮説が浮かんだ。

 一つ。処理が通常より深刻なレベルに至った。補助金の不正受給は、関与する利害関係者の規模が大きい。農林水産省の補助金は地方経済に直結する。この人物が調査していた不正の規模が、他の四件より格段に大きかった可能性がある。

 二つ。この人物自身が、通常とは異なる対応を取った。処理の過程で何かをした。逃げたのか、反撃したのか。

 奏は白紙のページを引き出しから取り出した。封筒の最後に入っていた、何も書かれていない一枚。透かしても何もない。

 この白紙は五人目——奏自身——に対応しているのか。それとも、まだ書かれていない六人目の存在を示唆しているのか。

 国会図書館のデジタルアーカイブでは限界がある。

 翌日、奏は電車に乗った。

 永田町。国立国会図書館。地上から見える建物の規模に比べ、地下の書庫は遥かに広い。日本で出版されたすべての書籍が収蔵されている。

 奏が探しているのは書籍ではなかった。

 マイクロフィルムの閲覧室。ここには、デジタル化されていない古い行政資料の一部がマイクロフィルムとして保存されている。戦後直後の行政文書、GHQ関連の日本語資料、非公開が解除された一部の内部文書。デジタルアーカイブには載らない資料がある。

 閲覧申請書に記入する。資料番号は事前に目録から控えてきた。一九四七年から一九五二年までの内閣官房関連の事務引き継ぎ文書。GHQ撤退時に日本側に移管された行政資料の目録。

 フィルムリーダーにフィルムをセットする。光が透過して、画面に古い文書が映し出される。手書きの毛筆。旧字体。紙は黄変している。

 事務引き継ぎ文書の中に、奏が探しているものがあった。

 一九五二年四月。サンフランシスコ講和条約発効直後。GHQの民間情報教育局(CIE)から日本側への引き継ぎ事項一覧。教育制度、メディア統制、労働組合の管理。そしてリストの末尾に、一行だけ。

 「社会安定化のための調整機能の移管について」

 詳細はなかった。参照先として別の文書番号が記されているが、その文書番号は目録に存在しなかった。存在しない文書への参照。死んだリンク。

 だが、一行で十分だった。

 「調整機能」。これが組織を指す言葉だとすれば、一九五二年の時点でGHQから日本側に移管されている。七十年以上前からこの国に存在している。

 奏はフィルムリーダーの画面をスマートフォンで撮影した。画面の反射で文字が読みにくいが、証拠としては十分だ。

 閲覧室を出た。ロビーの自動販売機でペットボトルの水を買い、ベンチに座った。人が少ない時間帯だ。向かいのベンチに年配の男性が一人、分厚い法律書を読んでいる。

 奏はスマートフォンの画面を見つめた。

 七十年。

 七十年間、この組織は日本社会の裏側で機能し続けてきた。省庁の不正を告発しようとした人間を、一人ずつ、静かに、証拠を残さずに消してきた。奏もその一人だ。

 だが封筒を送ってきた人間がいる。

 この精度の資料を複数省庁にまたがって作成できるのは、組織の内部に近い人間だ。あるいは、かつて内部にいた人間。封筒は告発なのか、挑発なのか。

 奏はペットボトルの蓋を閉めた。

 帰りの電車の中で、翻訳の仕事を一件片づけた。英文のマニュアルを日本語に変換する作業。目は画面を見ているが、思考は別の場所にある。三人目の被害者。消えた公務員。退職記録のない人間。

 もし、この人物が生きているなら。

 もし、この人物が「消えた」のではなく「逃げた」のなら。

 逃げた先には、何かがあるはずだ。逃げるだけなら記録を消す必要はない。記録を消したのは組織だ。だが、本人が自発的に記録を消す手段を持っていた可能性は、低い。公務員には行政システムの末端にしかアクセス権がない。

 では、誰かが消した。

 組織が消したのか、あるいは、組織の誰かが、この人物を守るために消したのか。

 守る。

 奏は窓の外を見た。電車が多摩川を渡っている。鉄橋の振動が座席を通じて伝わってくる。川面が夕日を反射して光っている。

 組織の中に、被害者を守ろうとする人間がいる。

 その仮説は、封筒の存在そのものが裏づけている。

 湊裏区のアパートに戻った。階段を上がる。郵便受けを見る。空。何もない。

 部屋に入り、鍵をかけ、封筒の資料をもう一度テーブルに広げた。

 赤ペンを手に取る。

 今度は、省略されたステップ五に集中する。五件すべてでステップ五が省略されている。省略の理由は二つ考えられる。

 一つ。ステップ五は、資料の作成者にとって記録に残せない内容だった。

 二つ。ステップ五は、まだ実行されていない。

 奏は自分の事例を振り返った。懲戒免職。退職金なし。母親の勤務先への匿名電話。弁護士の断念。ここまでがステップ四に相当する。ステップ六は「接触停止」。

 では、ステップ四と六の間に、何があったか。

 あった。

 懲戒免職の翌月。奏が知人の紹介で翻訳の仕事を見つけ、湊裏区のアパートに引っ越した直後。一通のメールが届いた。送信者名なし。件名なし。本文は一行。

 「これ以上調べるな」

 奏は当時、何も調べていなかった。上司の横領の件は懲戒免職で終わっていた。調べる対象がなかった。だからあのメールの意味が分からなかった。

 今なら分かる。

 あれがステップ五だ。

 最終警告。これ以上踏み込めば、ステップ六の「接触停止」ではなく、三人目と同じように、消される。

 奏は赤ペンの蓋を閉めた。

 窓の外は暗くなっていた。雨は降っていない。星も出ていない。湊裏区の夜は、街灯の光だけが薄く路面を照らしている。

 ノートパソコンを開いた。ブラウザを開いた。

 三人目の被害者。農林水産省の元係長。補助金の不正受給を調査していた人物。

 奏は、この人物を探すことに決めた。

 生きているなら、話を聞く。死んでいるなら、死因を調べる。消えた人間の行方を追えば、組織の輪郭が見える。消し方に、癖が出る。

 翻訳の仕事を三件、予定通りに納品してから。

 黛奏は帳簿を読むように、人の消し方を読む。