遮光カーテンを閉め切った杉並のアパートで、詩音はノートパソコン二台とタブレット一台の画面を三つ並べた。左の画面にターミナル。中央の画面にネットワーク構成図。右のタブレットにチャットウィンドウ。
時刻は午前二時。
部屋の照明は消している。画面の光だけが壁に反射している。遮光カーテンの隙間から、街灯のオレンジが一筋入っている。
コーヒーは飲まない。代わりにペットボトルの水。五百ミリリットル。三時間で一本のペースで飲む。
チャットに打った。
『開始します』
桐嶋の返信。即座に。
『了解。異常があれば即座に報告しろ』
奏の返信。三秒後。
『気をつけて』
気をつけて。詩音はその三文字を一秒見つめた。それから画面に向き直った。
ターゲットは調停機構のクラウドストレージ。前回の侵入で判明した構成。表向きは一般的なクラウドサービスのアカウント。企業向けプランを法人名義で契約している。法人名は「一般社団法人 公共政策調整研究所」。
前回はこのアカウントのセキュリティを正面から突破しようとして、多要素認証の壁で止まった。物理キーが必要な認証。持っていないものは突破できない。
だが撤退時に気づいたことがある。
セキュリティログの構造。ログインの失敗記録が残る場所と、残らない場所がある。メインのストレージにはログが残る。だがバックアップ領域にはログ記録の設定が異なっていた。
バックアップ領域。本体のデータを定期的にコピーする場所。セキュリティレベルは本体より低い。古いバックアップほど、管理が甘い。
詩音の仮説:三年以上前のバックアップ領域には、現在のセキュリティポリシーが適用されていない可能性がある。
三年前。ラフトが潰された年。
詩音はキーボードを叩いた。
最初の二十分。クラウドサービスのAPIを通じて、バックアップ領域のディレクトリ構造を読み取る。ここまではアカウントなしでもアクセスできる公開情報。
ディレクトリが見えた。年度別に分かれている。2025、2024、2023、2022、2021——。
2022以前のディレクトリにアクセスを試みた。
認証要求。
多要素認証ではなかった。パスワード認証のみ。
仮説は正しかった。古いバックアップには現在のセキュリティが適用されていない。
だがパスワードは分からない。
辞書攻撃は時間がかかりすぎる。ブルートフォースは検知される。
詩音は別のアプローチを取った。
パスワードリセットのフロー。パスワードを忘れた場合の復旧手順。リセットメールの送信先が表示される。一部がマスクされているが、ドメインが見える。
@koseiken.or.jp
公共政策調整研究所のドメイン。
このドメインのメールサーバーの構成を調べた。MXレコード。SPFレコード。DNSの設定。
メールサーバーは古い。設定が二〇一九年から更新されていない。SPFレコードが甘い。
ここを突けば、パスワードリセットメールを傍受できる。
止まった。
詩音の手が止まった。画面を見つめた。
メールサーバーへの侵入は、クラウドストレージへの侵入とは次元が違う。メールを傍受すれば、犯罪になる。不正アクセス禁止法。証拠として使えなくなる。
奏が言っていた。「調停機構と同じ手は使わない」。
メールの傍受は、機構がターゲットに使う手口と同じだ。
詩音はキーボードから手を離した。
チャットに打った。
『バックアップ領域まで到達。パスワード認証のみ。突破可能だが、手段がグレー。メールサーバー経由のパスワードリセット。不正アクセスに該当する可能性あり』
奏の返信。一分後。
『やめてください。不正な手段で得た情報は使えません。別の方法を探しましょう』
桐嶋の返信。
『同意する。撤退しろ』
詩音は撤退した。アクセスログを確認し、自分の痕跡を可能な限り消した。完全には消せない。だがバックアップ領域のログは監視頻度が低い。気づかれる可能性は低い。たぶん。
午前三時。
詩音は椅子の背もたれに体を預けた。天井を見上げた。暗い天井。
失敗。
だが収穫はあった。
バックアップ領域は古いセキュリティ。パスワード認証のみ。メールサーバーは二〇一九年から更新されていない。
そしてディレクトリ構造が見えた。年度別のフォルダ名。2021年のフォルダに、サブディレクトリがあった。名前は短い英数字の列。ランダムに見えるが。
詩音はメモを取った。紙に。デジタルには残さない。桐嶋の教え。
サブディレクトリ名:「KRS-031」「MYT-018」「HRN-005」。
アルファベット三文字とハイフンと数字。
ファイルの命名規則。人名のイニシャルと通し番号——という仮説。
KRS。MYT。HRN。
詩音はペンを止めた。
KRS。
来栖?
桐嶋のリストにあった名前。六人目ではない。リストには載っていなかったが、封筒の差出人の候補として桐嶋が言及していた名前。来栖朔。元機構所属。
KRS-031。来栖が関わった三十一件目の案件。
仮説だ。確証はない。
チャットには打たなかった。
紙のメモをポケットに入れた。
水を飲んだ。ペットボトルの残りが三分の一。
窓の外が少しだけ明るくなり始めていた。十一月の夜明けは遅い。まだ暗いが、空の色が変わり始めている。
失敗した侵入。だが、ディレクトリの名前が残った。
KRS-031。
詩音はその三文字を、壁の相関図のどこに貼るべきか、考え始めていた。