湊裏区のアパートに戻った午後、奏はテーブルの上でスマートフォンを手に取り、詩音にメッセージを送った。
『三つの名前が交差しました。詳細を共有したいのですが、お時間いただけますか』
返信は二分後。
『対面ですか? チャットですか?』
『どちらでも。詩音さんが話しやすい方で』
三十秒の沈黙。
『チャットで。今から。画面共有します』
詩音の画面が共有された。壁の写真ではなく、スプレッドシート。三つの名前、十七社の法人名、役員の在任期間、融資元、清算日。整然とした表。壁一面の糸と紙を、デジタルに再構成したものだ。
奏は自分の三点の重なりを説明した。テキストで。一文ずつ。
詩音の返信も一文ずつ。短い。
『双葉監査法人。私のリストにもあります。拠点は新宿区四谷。代表は横山健。設立は2008年。顧問先は現在11社』
『融資経路の重なりは未確認でした。桐嶋さんのリストの片桐さんの信用金庫。確認します』
『役員名の一致は、これは大きい。私の十七社と、あなたの封筒のターゲットが同じ人脈圏にいる証拠です』
一時間。チャットだけで一時間。
奏は画面を見つめながら、紅茶を飲んだ。コーヒーは三分の二。紅茶は規定量で淹れる。使い分けは無意識だ。
一時間後、詩音が切り出した。
『黛さん。一つ確認していいですか』
『何ですか』
『今後も一緒に作業するということですか。継続的に』
三秒の間があった。奏は書類を揃える手を止めて考えた。
『はい。あなたの二年分の蓄積は、私たちに必要です。私と桐嶋だけでは見えない構造が、あなたのデータで見える。協力をお願いしたい』
一分の沈黙。チャットの「入力中」表示が点滅して、消えて、また点滅した。
『条件があります』
『聞きます』
『一、対面は月に二回まで。できれば一回。場所は私が指定します』
『了解しました』
『二、連絡はチャットのみ。電話は出ません。ビデオ通話も不可です』
『了解しました』
『三、私がコーディングしている間は話しかけないでください。作業中に割り込まれると、三時間分の集中が消えます』
『了解しました。作業中かどうかは、どう判断すれば』
『ステータスを「作業中」にしておきます。それが消えたら話しかけていいです』
三つの条件。対面制限、連絡手段の限定、作業中の不可侵。
奏はこれらの条件が、詩音にとって生存のためのルールであることを理解した。二年間の引きこもり生活で構築した、自分を守るための境界線。
奏にも似たルールがある。コーヒーの濃さ、手帳のインクの色、翻訳の納期管理。自分を維持するための手続き。
『すべて了解しました。他にありますか』
三十秒。
『報酬の話はしないんですか』
奏の手が止まった。
『報酬?』
『私の技術と二年分のデータを使うなら、対価があるべきです。ボランティアではないので』
ビジネスライク。詩音は二年間引きこもっていたが、職業意識は壊れていなかった。
『正直に言います。今、私たちには資金がほとんどありません。私の収入は翻訳の月十一万円です。桐嶋さんの収入は知りません。活動費は私の生活費から捻出しています』
一分の沈黙。
『十一万円で暮らしてるんですか』
『はい』
『家賃は』
『四万五千円』
『残り六万五千円で生活と調査を?』
『はい』
長い沈黙。二分。
『報酬は後払いでいいです。この調査が何らかの成果を上げたとき——成果の定義はまだ分かりませんが——そのとき清算してください』
『ありがとうございます』
『ありがとうは要りません。黛さん。一つだけ』
『何ですか』
『壁の写真を見て、最初に何を思いましたか。「すごい」以外に』
奏は考えた。あのアパートで壁を見たとき。三面分の紙。赤い糸。二年間。
『一人でやらなくてよかった、と思いました。——一人でやった人を見て、一人でやる必要がなくなることを知りました』
一分の沈黙。
『入力中』の表示が点滅した。長い入力。
返ってきたのは一行だった。
『では、よろしくお願いします』
チャットが終了した。
奏はスマートフォンを机に置いた。
メモ帳を開いた。今日の記録。
「永瀬詩音。正式に協力合意。条件三項目。報酬は後払い」
その下に。
「一人でやらなくてよかった」
書いてから、消した。メモ帳に感情は書かない。事実だけを書く。
事実:三人になった。