小説置き場
再建屋 梶 誠一

第17話「条件」

1,715文字 約4分

湊裏区のアパートに戻った午後、奏はテーブルの上でスマートフォンを手に取り、詩音にメッセージを送った。

 『三つの名前が交差しました。詳細を共有したいのですが、お時間いただけますか』

 返信は二分後。

 『対面ですか? チャットですか?』

 『どちらでも。詩音さんが話しやすい方で』

 三十秒の沈黙。

 『チャットで。今から。画面共有します』

 詩音の画面が共有された。壁の写真ではなく、スプレッドシート。三つの名前、十七社の法人名、役員の在任期間、融資元、清算日。整然とした表。壁一面の糸と紙を、デジタルに再構成したものだ。

 奏は自分の三点の重なりを説明した。テキストで。一文ずつ。

 詩音の返信も一文ずつ。短い。

 『双葉監査法人。私のリストにもあります。拠点は新宿区四谷。代表は横山健。設立は2008年。顧問先は現在11社』

 『融資経路の重なりは未確認でした。桐嶋さんのリストの片桐さんの信用金庫。確認します』

 『役員名の一致は、これは大きい。私の十七社と、あなたの封筒のターゲットが同じ人脈圏にいる証拠です』

 一時間。チャットだけで一時間。

 奏は画面を見つめながら、紅茶を飲んだ。コーヒーは三分の二。紅茶は規定量で淹れる。使い分けは無意識だ。

 一時間後、詩音が切り出した。

 『黛さん。一つ確認していいですか』

 『何ですか』

 『今後も一緒に作業するということですか。継続的に』

 三秒の間があった。奏は書類を揃える手を止めて考えた。

 『はい。あなたの二年分の蓄積は、私たちに必要です。私と桐嶋だけでは見えない構造が、あなたのデータで見える。協力をお願いしたい』

 一分の沈黙。チャットの「入力中」表示が点滅して、消えて、また点滅した。

 『条件があります』

 『聞きます』

 『一、対面は月に二回まで。できれば一回。場所は私が指定します』

 『了解しました』

 『二、連絡はチャットのみ。電話は出ません。ビデオ通話も不可です』

 『了解しました』

 『三、私がコーディングしている間は話しかけないでください。作業中に割り込まれると、三時間分の集中が消えます』

 『了解しました。作業中かどうかは、どう判断すれば』

 『ステータスを「作業中」にしておきます。それが消えたら話しかけていいです』

 三つの条件。対面制限、連絡手段の限定、作業中の不可侵。

 奏はこれらの条件が、詩音にとって生存のためのルールであることを理解した。二年間の引きこもり生活で構築した、自分を守るための境界線。

 奏にも似たルールがある。コーヒーの濃さ、手帳のインクの色、翻訳の納期管理。自分を維持するための手続き。

 『すべて了解しました。他にありますか』

 三十秒。

 『報酬の話はしないんですか』

 奏の手が止まった。

 『報酬?』

 『私の技術と二年分のデータを使うなら、対価があるべきです。ボランティアではないので』

 ビジネスライク。詩音は二年間引きこもっていたが、職業意識は壊れていなかった。

 『正直に言います。今、私たちには資金がほとんどありません。私の収入は翻訳の月十一万円です。桐嶋さんの収入は知りません。活動費は私の生活費から捻出しています』

 一分の沈黙。

 『十一万円で暮らしてるんですか』

 『はい』

 『家賃は』

 『四万五千円』

 『残り六万五千円で生活と調査を?』

 『はい』

 長い沈黙。二分。

 『報酬は後払いでいいです。この調査が何らかの成果を上げたとき——成果の定義はまだ分かりませんが——そのとき清算してください』

 『ありがとうございます』

 『ありがとうは要りません。黛さん。一つだけ』

 『何ですか』

 『壁の写真を見て、最初に何を思いましたか。「すごい」以外に』

 奏は考えた。あのアパートで壁を見たとき。三面分の紙。赤い糸。二年間。

 『一人でやらなくてよかった、と思いました。——一人でやった人を見て、一人でやる必要がなくなることを知りました』

 一分の沈黙。

 『入力中』の表示が点滅した。長い入力。

 返ってきたのは一行だった。

 『では、よろしくお願いします』

 チャットが終了した。

 奏はスマートフォンを机に置いた。

 メモ帳を開いた。今日の記録。

 「永瀬詩音。正式に協力合意。条件三項目。報酬は後払い」

 その下に。

 「一人でやらなくてよかった」

 書いてから、消した。メモ帳に感情は書かない。事実だけを書く。

 事実:三人になった。