小説置き場
再建屋 梶 誠一

第15話「相関図」

2,756文字 約6分

住所は桐嶋が二日で突き止めた。

 杉並区。駅から徒歩十二分の古いアパート。二階建ての木造。築四十年以上。外壁の塗装が剥がれている。階段の手すりは錆びている。

 奏は二階の端の部屋の前に立った。表札はない。ドアの横にインターホンがある。

 押した。

 応答はなかった。十秒。二十秒。

 もう一度押した。

 インターホンの向こうで、かすかに音がした。足音ではない。椅子が動く音。

「……誰ですか」

 声が返ってきた。若い女性の声。だが枯れている。声を出し慣れていない人間の声だ。

「黛奏と言います。翻訳の仕事をしています。永瀬詩音さんですか」

「何の用ですか」

「お話を聞かせてください。ラフトのことです」

 沈黙。五秒。十秒。

「……帰ってください」

「私も同じ経験をしています。国税局で、内部告発をして、潰されました」

 沈黙。

「手口は同じです。上司への匿名情報。口座への不審入金。家族への接触。あなたも、同じことをされたんじゃないですか」

 長い沈黙。三十秒。

 鍵の音がした。

 ドアが十センチだけ開いた。チェーンがかかったまま。

 隙間から目が見えた。眼鏡越しの目。暗い。光を長く浴びていない人間の目。

「……同じ経験」

「はい」

「証拠は」

 奏はコートのポケットから封筒を取り出した。白い封筒。中身は防御手順書のコピー。六ステップの攻撃手順と、奏が書いた防御法。

 封筒をドアの隙間に差し出した。

「これを読んでください。私に起きたことと、私が分析した結果です」

 手が出てきた。細い指。爪が短い。封筒を受け取った。

 ドアが閉まった。鍵の音。

 奏は廊下で待った。

 五分。壁にもたれて立っていた。階段の手すりの錆。隣の部屋から洗濯機の音。

 七分後。鍵の音。チェーンを外す音。

 ドアが開いた。

 永瀬詩音が立っていた。

 小柄だった。奏より十センチほど低い。髪は黒くて長いが、手入れされていない。結んでもいない。パーカーにスウェットのズボン。室内着。

 目が合わなかった。詩音の視線は奏の顔ではなく、奏の肩のあたりを見ていた。

「……入ってください」

 中に入った。

 ワンルーム。六畳と小さなキッチン。窓にはカーテンがかかっている。遮光。昼だが部屋の中は暗い。天井の蛍光灯だけが点いている。

 そして——壁。

 部屋の三面の壁が、紙で埋まっていた。

 A4のコピー用紙。プリントアウト。手書きのメモ。付箋。写真のプリント。新聞記事の切り抜き。それらが重なり合って、壁を覆い尽くしている。

 線が引いてあった。紙と紙の間を、赤い糸と黒いマーカーで結んでいる。社名と人名。企業名と日付。金額と口座番号。

 相関図だった。

 ラフト崩壊の相関図。二年分の調査。壁一面に展開された、一人の人間の執念。

 奏の手が止まった。書類を揃える癖のある指が、空中で静止していた。

 封筒の中の十四枚の資料とは、規模が違う。ここには数百枚の紙がある。それぞれに書き込みがある。線が何十本も走っている。

「すごい」

 奏は言った。その言葉しか出なかった。

 詩音は壁を見ていた。奏を見ていなかった。

「……二年かかりました」

「一人で?」

「一人で」

「SNSの投稿を読みました。『壁に貼った、全部、時系列で、見えてきた』と書いていた」

 詩音が少しだけ顔を上げた。まだ奏の目は見ていない。壁を見ている。

「見えてきたんです。一枚ずつ貼っていったら。最初はバラバラで、何も分からなかった。でも日付順に並べたら、線が見えた」

「どんな線」

 詩音の声が変わった。

 枯れていた声に、明瞭な輪郭が生まれた。

「ラフトの不正融資。これが起点です」

 詩音が壁の左端を指した。

「ラフトの創業資金の一部が、表の口座を経由して別の企業に流れていた。私はこの経路をサーバーのログから見つけた。金額は二億三千万。三年間で。ここまでは私が在職中に掴んだ部分です」

 指が壁の中央に移った。

「ここからが、退職後に調べた部分。資金の流出先は三社。三社とも、設立から三年以内に清算されている。実体のないペーパーカンパニーです。でも三社の登記を調べたら、監査法人が同じだった」

「監査法人」

「名前は小さい。大手じゃない。でもこの監査法人が関わった企業を調べたら、十七社ありました。十七社のうち十二社が五年以内に倒産。残り五社は買収。全部、資金の流れに不自然な点がある」

 詩音の指が壁の右側に移った。赤い糸が集中している場所。

「十七社の役員名簿を重ねたら、三つの名前が繰り返し出てくる。同じ三人が、何度も別の会社に入り、別の会社を畳んでいる」

「三つの名前」

「まだ確定ではないです。確定にするには、もう一つ証拠が要る。でも」

 詩音が振り返った。初めて、奏のほうを向いた。目は合わなかった。奏の胸元を見ていた。

「あなたが持ってきた封筒。あの手順書。あれを書いた組織と、この三つの名前は、繋がっていると思います」

 奏の心臓が鳴った。

 二年間の孤独な調査が、ここにある。壁一面。数百枚。赤い糸。

 奏の十四枚と、詩音の数百枚。重ねれば——。

「永瀬さん。私たちに協力してもらえませんか」

 詩音は黙った。壁を見た。奏の顔ではなく。

「……私は、人と話すのが得意じゃないです」

「分かっています」

「チャットなら。対面は月に二回が限界です。できれば一回」

「それで構いません」

「コーディング中は話しかけないでください」

「約束します」

 詩音が少しだけ、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。

「……壁の写真、撮っていいですか」

 奏は携帯を取り出した。

「はい。撮ってください」

 奏は壁を撮影した。三面分。全体と部分。糸の繋がり。名前の集中箇所。

 帰り際、玄関で靴を履きながら、奏は振り返った。

 詩音は壁の前に立っていた。腕を組んで。壁と向き合って。

 二年間、この壁と二人きりだったのだ。

「永瀬さん」

「はい」

「壁に貼り続けたこと。それは正しかったと思います」

 詩音は答えなかった。ただ、壁の方を向いたまま、小さく頷いた。

 アパートの階段を降りた。外の光が眩しかった。部屋の中が暗かったことに、出てから気づいた。

 携帯の写真を確認した。壁一面の相関図。数百枚の紙。赤い糸。

 この中に、機構の輪郭がある。奏の十四枚と、詩音の数百枚。そして桐嶋の七人のリスト。

 三つを重ねれば、見えてくるものがある。

 駅に向かって歩いた。杉並の住宅街。静かな午後。

 奏はメモ帳を開いた。今日の記録。「永瀬詩音。接触成功。協力了承。条件:対面月二回上限、連絡はチャット、作業中不可侵」。

 条件の下に、一行追加した。

 「壁の相関図に、三つの名前。機構との接続可能性あり」

 メモ帳を閉じた。

 一つの謎が解けた。永瀬詩音が二年間何をしていたか。壁に貼っていた。調べ続けていた。一人で。

 一つの謎が生まれた。三つの名前。十七社を渡り歩く三人。

 奏は駅の改札を通った。帰りの電車の中で、壁の写真をもう一度見た。

 帳簿と同じだ。正しく読めば、見える。

 見えたものは、記録する。