小説置き場
再建屋 梶 誠一

第13話「空欄」

2,393文字 約5分

十一月の第一週、翻訳の納品メールを送信した直後に桐嶋から電話があった。

「明日の午後、空いているか」

「空いている」

「湊裏区の喫茶店。二時」

 電話が切れた。桐嶋はいつもこうだ。用件だけ。前置きも後書きもない。

 翌日。喫茶店。カウンターだけの小さな店。桐嶋が先に来ていた。コーヒーを飲んでいる。ブラック。いつもブラックだ。

 奏はアイスコーヒーを頼んだ。ガムシロップは入れない。

 桐嶋がコートの内ポケットからA4の紙を出した。四つ折り。開いた。テーブルに置いた。

 リストだった。

 七行。一行に一人分の情報。名前、年齢、職業、接触状態。手書き。桐嶋の字は癖がなく、読みやすい。元公安の書類作成能力。

 一人目。河野圭介。42歳。元建設コンサル。接触済。

 二人目。中園由梨。38歳。元フリーランス記者。接触済。

 三人目。片桐正之。55歳。元信用金庫支店長。接触済。

 四人目。御手洗幸。72歳。元地方紙編集長。未接触。

 五人目。永瀬詩音。23歳。元エンジニア。未接触。

 六人目。来栖朔。35歳。元機構所属。未接触。

 七人目。

 空白だった。

 名前も年齢も職業も書かれていない。一行分のスペースが空けてある。そこだけが白い。

「このリストは」

「機構によって処理された人間の一部だ。俺が確認できた範囲で七人。うち三人に接触済み。残り四人のうち三人は、これから接触する候補だ」

「七人目は」

 桐嶋の手がコーヒーカップの取っ手を握ったまま、止まった。

 一秒。二秒。

「……七人目は、まだ確定していない。名前を書ける段階ではない」

 声のトーンが変わった。微細な変化。周波数が下がったのではなく、発声の速度が落ちた。ほんの零コンマ数秒。

 奏はそれを聞いた。聞いたが、意味を取れなかった。

 桐嶋は感情を声に出さない人間だ。「信じるな、記録しろ」と言う人間だ。声のトーンが変わるのは、何かを隠しているのか、言いかけて止めたのか。

 奏はリストに視線を戻した。

「四人目の御手洗。旧社屋の人ですね。接触の時期は」

「来月。大家との交渉が先だ。場所を確保してから接触する」

「五人目の永瀬詩音。エンジニア。機構に潰された?」

「二年前。所属していたITベンチャー『ラフト』が潰された。表向きは資金繰りの悪化による倒産。だが永瀬はそう思っていない。内部で不正融資の証拠を見つけて、告発しようとした直後に会社が消えた」

「パターンが同じですね。告発しようとした人間が消される」

「同じだ。手口が定型化している。定型化しているということは、マニュアルがある」

 奏はメモを取った。手帳の新しいページ。永瀬詩音。23歳。元エンジニア。ラフト。不正融資。

「六人目。来栖朔。元機構所属」

 奏はペンを止めた。

「機構の中の人間?」

「元、だ。三年前に離脱している。理由は不明。だが、機構の内部情報を持っている」

「味方になるんですか」

「分からない。味方かどうかは接触してみないと判断できない。だが、内部を知っている人間は貴重だ」

 奏はリストをもう一度見た。七人。一人目から六人目までは、名前がある。七人目だけが空白。

 奏はアイスコーヒーのグラスを指先で回しながら言った。

「桐嶋さん。七人目について、確認したいことがある」

 桐嶋がコーヒーを飲んだ。ゆっくりと。カップを置く音がいつもより静かだった。

「確定していないと言った」

「ええ。でも、スペースを空けているということは、候補はいるんでしょう」

「いる」

「名前が書けない理由は」

 桐嶋が窓の外を見た。

 喫茶店の窓から、商店街が見える。自転車に乗った主婦。ランドセルの小学生。信号が青になって、横断歩道を渡っていく。

 桐嶋は窓の外を十秒見ていた。

「個人的な理由だ」

 それだけだった。

 個人的な理由。桐嶋が個人的な理由を口にしたのは初めてだった。この男は常に業務的だ。感情を私的領域に閉じ込めて、表に出さない。それが元公安の流儀なのか、桐嶋個人の性格なのか、奏には判別がつかない。

 窓の外を見ていた桐嶋の目が、横断歩道を渡る小学生を追っていた。ランドセルの赤い色が遠ざかっていく。桐嶋の目がそれを追って、追い終わって、コーヒーに戻った。

 奏はそれを見ていた。

 見ていたが——意味を取れなかった。

 桐嶋が小学生を目で追った理由。個人的な理由。七人目の空白。それらが繋がる可能性を、奏は考えなかった。

 構造を読む力がある。帳簿の矛盾を読む力がある。だが人間の感情の断片を読む力は、奏にはない。

 桐嶋がリストを畳んだ。四つ折りにして、コートの内ポケットに戻した。

「旧社屋の件。大家との交渉は今週中に進める。結果が出たら連絡する」

「分かりました」

「黛。一つ確認していいか」

「何ですか」

「この仕事。どこまでやるつもりだ」

 奏はアイスコーヒーのグラスを見た。氷が溶けかけている。水滴がグラスの表面を伝っている。

「終わるまでです」

「終わりの定義は」

「機構の処理手順が、誰にでも読める場所に出ること」

 桐嶋は何も言わなかった。五秒。グラスの水滴が一つ落ちた。

「分かった」

 喫茶店を出た。商店街を歩いた。桐嶋は駅の方向に歩いていった。奏は反対方向に歩いた。

 歩きながら、手帳を開いた。今日の記録を確認した。七人のリスト。七人目の空白。桐嶋の「個人的な理由」。

 手帳に書いた。「七人目:空白。桐嶋の個人的理由。接触候補あり。名前未記載」。

 事実だけを書いた。桐嶋が窓の外の小学生を目で追ったことは、書かなかった。

 書くべきだったかもしれない。

 だが奏は、それが何を意味するのか分からなかったから、書かなかった。分からないものは書けない。数字なら合っているか合っていないか判別できる。人間の視線が何を追っているかは、判別の基準がない。

 帰りの電車で、奏は窓の外を見た。夕方の街が流れていく。

 七人目の空白。あの空白が埋まるのは、いつだろう。

 桐嶋が自分で書くのか。誰かが代わりに書くのか。あるいは——永遠に空白のままか。

 奏には分からなかった。