小説置き場
再建屋 梶 誠一

第12話「左遷」

2,387文字 約5分

八歳のときの記憶がある。父がリビングのテーブルで、夕食後の静かな時間に書類を並べていた。夕食後。母は台所で皿を洗っている。水の音が規則的に響いている。

 書類はA4のコピー用紙で、数字が並んでいた。奏はダイニングチェアの端に座って、宿題の漢字ドリルをやりながら、父の手元を見ていた。

 父は税務署の職員だった。

 何の仕事をしているか、当時は正確には知らなかった。税金を集める仕事だと思っていた。実際には調査部門で、企業の申告内容を照合する仕事をしていた。帳簿を読む仕事。

 父は赤ペンを使っていた。書類の数字の横に、小さく数字を書き込んでいく。書き込む数字は、書類の数字と一致していないらしい。赤い数字が増えるたびに、父の眉間の皺が深くなった。

 奏は漢字ドリルの手を止めて、父の赤い数字を目で追った。書類の数字と、父が書き込む数字。差がある。差は一箇所ではなかった。何箇所もあった。

「お父さん」

「ん」

「その数字、合ってないの」

 父が手を止めた。奏を見た。

「合ってない」三秒の間があった。「よく分かったな」

「赤い方がいっぱい書いてあるから。合ってたら書かないでしょう」

 父は少し笑った。

「そうだ。合ってない。合ってないから、赤で書いてる」

「直すの?」

「直すんじゃない。合ってないことを、報告する」

「報告したらどうなるの」

 父は赤ペンを置いた。テーブルの上の書類を見つめた。五秒。十秒。

「正しい数字になる。たぶん」

 たぶん。

 八歳の奏はその「たぶん」が引っかかった。合ってないなら、正しい数字に直せばいい。それだけの話のはずだ。なぜ「たぶん」なのか。

 三ヶ月後、父が異動になった。

 調査部門から総務課へ。デスクが変わった。仕事内容が変わった。帳簿を読む仕事から、備品の在庫管理に変わった。

 母が夜、電話で話しているのが聞こえた。

「左遷よ。あの人、真面目すぎるのよ。見なかったことにすればよかったのに」

 左遷。

 八歳の奏はその言葉を国語辞典で引いた。「今の地位・役職より低い地位・役職に移すこと」。

 父は帰宅時間が早くなった。以前は八時だったのが六時になった。リビングで書類を広げることはなくなった。赤ペンも使わなくなった。テレビを見る時間が増えた。

 夕食のとき、奏は父に聞いた。

「お父さん。数字、合ってなかったんでしょう」

「ああ」

「報告したの」

「した」

「正しい数字になった?」

 父は箸を置いた。味噌汁の椀を見つめた。

「……ならなかった」

 奏は言葉の続きを待った。父は何も言わなかった。味噌汁を飲んだ。

 正しいことをした人間が、低い場所に移される。合っていない数字は、合っていないまま残る。

 八歳の奏は怒らなかった。

 母は怒っていた。電話で友人に愚痴を言っていた。「真面目な人間が馬鹿を見る」と。

 奏は怒らなかった。代わりに、考えた。

 なぜ、合っていない数字が直らなかったのか。報告はされた。報告を受け取った人間がいる。その人間が、直さないと判断した。なぜか。直すと、誰かが困るからだ。困る人間が、直さないように力を使った。

 正しいか正しくないかの問題ではなかった。力の問題だった。

 八歳の奏にとって、それは発見だった。怒りではなく、発見。世界には、正しさとは別の力学が動いている。その力学が見えれば——「たぶん」の理由が分かる。

 父はその後十年、総務課にいた。定年まで。一度も調査部門に戻らなかった。帳簿は読まなくなった。赤ペンは引き出しの奥にしまわれた。

 奏が大学で会計学を選んだとき、母は少し不安そうな顔をした。父は何も言わなかった。

 国税局に入ったとき、母は反対した。父は何も言わなかった。

 奏が国税局で上司の横領を発見して、一人で調査を始めたとき、奏は父に相談しなかった。父はもう定年退職していた。穏やかに暮らしていた。テレビを見て、散歩をして、近所の人と世間話をする老人になっていた。

 奏は相談しなかった。一人でやった。父と同じことをした。合っていない数字を見つけて、報告した。

 結果も同じだった。

 左遷ではなかった。もっとひどかった。上司の信頼を失い、口座に不審な入金があり、家族関係に亀裂が入り、内部告発者として告発され、辞職に追い込まれた。

 ステップ一から六。

 父のときはステップ一だけで終わった。異動。それだけで済んだ。父が見つけた数字の差は、個人の横領程度のものだったのだろう。機構が動くほどの案件ではなかった。

 奏が見つけたものは、機構が動くレベルだった。だから六ステップすべてを受けた。

 今日は十一月十七日。日曜日。

 奏は湊裏区のアパートの机で翻訳をしていた。法律事務所の契約書。

 翻訳の手を止めて、引き出しからメモ帳を出した。「防御手順書(案)」。青いインク。

 ステップ一の防御法を読み返した。「上司の態度が突然変わったら、その時点で記録を開始する」。

 父は記録しなかった。記録するという発想がなかった。正しいことをすれば正しい結果になると思っていた。

 奏も記録しなかった。帳簿を読むのは得意だったのに、自分に起きていることを記録するという発想がなかった。

 桐嶋の言葉が浮かんだ。「信じるな、記録しろ」。

 父がその言葉を知っていれば。奏が二年前にその言葉を知っていれば。

 メモ帳を閉じた。引き出しにしまった。

 翻訳に戻った。契約書の第三条。「甲は乙に対し、本契約に基づく一切の責任を負わないものとする」。

 責任を負わない。

 あの税務署も、国税局も、機構も、誰も責任を負わなかった。数字が合っていないのに。合っていないことを報告した人間が潰されたのに。

 奏はキーボードを打った。一文字ずつ。正確に。

 怒りは二年前に通り過ぎた。今あるのは、構造への関心だ。なぜ合わない数字が放置されるのか。なぜ報告した人間が消されるのか。その仕組みが見えれば——。

 壊せるのではない。見える場所に出せる。

 見えれば、変わる。

 たぶん。

 父と同じ「たぶん」を、奏は二十一年後に使っている。