奏はテーブルの上に封筒の資料を広げた。十四枚。赤ペンの印が三十七個。二ヶ月前に初めて読んだ日から、何度も読み返してきた。だが今日は、読み方を変える。これまでは「何をされたか」を読んでいた。今日からは「何をすれば防げるか」を読む。
攻撃の設計図は、裏返せば防御のマニュアルになる。
メモ帳を新しく開いた。百均で買った三冊目。表紙に「防御手順書(案)」と書いた。
ステップ一。「対象者の上司に匿名の情報を流す。対象者の私的な弱点に関するもの」。
防御法:上司の態度が突然変わったら、その時点で記録を開始する。日付、発言内容、目撃者の有無。変化が三日以上続いた場合、上司ではなく信頼できる第三者に相談する。上司に直接問いただしてはいけない。問いただすと「本人が動揺している」という情報が攻撃者に戻る。
奏は赤ペンをボールペンに持ち替えた。防御の記述には青いインクを使う。攻撃と防御を色で分ける。
ステップ二。「対象者の銀行口座に説明困難な入金記録を作る」。
防御法:全ての口座の入出金をリアルタイムで監視する。見覚えのない入金があった時点で、即座に銀行に問い合わせ、書面で回答を求める。同時に、入金の存在を第三者(弁護士が最適)に書面で報告する。「知らなかった」という弁明が疑惑を深めるのだから、「知った時点で動いた」という記録が最大の防壁になる。
ステップ三。「配偶者の職場に、対象者の問題行動を示唆する連絡を入れる」。
防御法:家族に事前に説明しておく。「もし私について変な連絡が来たら、すぐに教えてくれ。反論も同意もしなくていい。ただ記録してくれ」。家族を味方にするのではなく、家族を記録者にする。
奏の手が止まった。
家族を記録者にする。
自分が二年前にこれをやっていたら。母親の勤務先への匿名電話を、母親が記録してくれていたら。
やっていなかった。奏は母親に何も説明していなかった。匿名電話が来たとき、母親は何も知らないまま——怯えた。
それが、ステップ三の成功条件だ。家族が何も知らないこと。知らないから、防げない。
奏はボールペンを置いた。手が止まった。三十秒の沈黙。窓の外を見た。湊裏区の午後。曇り空。
ボールペンを取り直した。続ける。
ステップ四。「内部告発の形式を装って対象者自身を加害者として告発する」。
防御法:自分が告発しようとしている情報のコピーを、複数の場所に分散して保存する。紙とデジタルの両方。保管場所を三箇所以上に分ける。攻撃者が証拠を捏造した場合、「こちらにはオリジナルがある」と示せる状態を作る。
そして告発の準備段階で、信頼できる人間を一人だけ見つけて、計画を共有しておく。一人でやらない。一人で動いた人間は、一人で潰される。
一人で動いた人間は、一人で潰される。
奏自身がそうだった。国税局時代、上司の横領を一人で調査した。一人で証拠を集めた。一人で告発の準備をした。だから一人で潰された。
ステップ五。省略。
奏は白紙のページを見つめた。ステップ五は最終警告だと仮説を立てた。「これ以上調べるな」。
防御法はない。最終警告が来た時点で、対象者は既にステップ一から四を食らっている。上司の信頼を失い、口座に不審な記録があり、家族関係に亀裂が入り、自分が加害者として告発されている。
最終警告が来たとき、まだ立っていられる人間は、ステップ一から四を防いだ人間だけだ。
だから、防御は早い段階でなければ意味がない。ステップ一の時点で気づいて動ければ、ステップ五には至らない。
ステップ六。「接触停止。対象者は自滅した人間として処理される」。
防御法:生き延びること。
奏はメモ帳を閉じた。
六ステップの攻撃に対する、六ステップの防御。完全ではない。穴がある。特にステップ二の口座入金は、銀行が協力しなければ対処が難しい。ステップ四の証拠捏造は、捏造の精度が高ければ見破れない可能性がある。
だが、何もないよりはマシだ。
問題は、この防御手順書を誰に渡すかだ。
六人目の河野に渡したい。だが直接接触すれば、機構に気づかれる。桐嶋の忠告は正しい。
間接的に渡す方法を考える必要がある。
コーヒーを淹れた。規定量の三分の二。三分の二は嘘ではなくなった。実際にそうしている。
椅子に座って、メモ帳の表紙を見つめた。「防御手順書(案)」。青いインク。
帳簿を読むのと同じだ。攻撃の設計図を読めば、防御の設計図が見える。数字の矛盾が嘘を示すように、手口の構造が弱点を示す。
翻訳の仕事を一件開いた。今日の納品物は法律事務所の定型書類だった。契約書のテンプレート。
契約書を訳しながら、頭の別の場所で防御手順書の穴を塞ぐ方法を考え続けていた。
おにぎりを食べた。鮭。今日は鮭だった。もう一つは昆布。昆布は明日の朝。
窓の外が暗くなっていた。メモ帳を引き出しにしまった。白紙のページの隣に。
攻撃の設計図と、防御の設計図。表裏一体。
奏にできることは、読むことだ。数字を読む。手口を読む。構造を読む。
そして書くこと。読んだものを、防御に変換して、書く。
帳簿は嘘をつかない。攻撃の手順書も嘘をつかない。嘘をつかないものを正確に読めば、真実が見える。
真実が見えれば——守れる。
たぶん。