内房線に揺られて一時間半、十一月の車窓に海岸線が見え始めた頃、館山の手前の小さな駅で降りた。桐嶋と二人。駅は無人だった。改札もない。ホームから直接道路に出る。
海が近い。潮の匂い。十一月の風が冷たいが、湊裏区の湿った冷気とは質が違う。乾いた海風だ。
駅前に商店はほとんどない。コンビニが一軒と、シャッターの降りた魚屋と、郵便局。桐嶋は迷いなく歩いた。道を知っている。
「前に来たことが」
「二年前に一度。御手洗の記事を読んで、社屋を見に来た。そのときは中には入っていない」
駅から歩いて十五分。住宅地を抜けると、二階建ての建物が見えた。
外壁はモルタルで、塗装が剥がれている。一階の大きな引き戸はシャッター式で、半分が錆びて動かない。二階の窓にはカーテンがかかっている。一部は開いている。誰かが住んでいる気配。建物の脇に自転車が一台。古いが、タイヤの空気は入っている。
看板の跡があった。外壁に四角い色の違う部分。かつて看板が掲げてあった場所。文字はもう読めない。
「『南房日報』。発行部数二千。三十年続いた地方紙だ」桐嶋が言った。
一階の引き戸の隙間から中を覗いた。埃が舞っている。コンクリートの床。中央に大きな機械、印刷機の残骸。解体されていないが、使われている形跡はない。壁沿いに段ボール箱が積まれている。大量に。
「取材資料だ。御手洗が三十年分を保管している。廃刊後も捨てていない」
三十年分の取材資料。地方紙の記者が三十年間取材した記録。それは地域の記憶そのものだ。
二階を外から見上げた。窓が二つ。一つはカーテンが閉まっている。もう一つは開いていて、中に本棚が見える。
「生活しているのは二階だけか」
「たぶん。一階は元印刷場で、二階が元編集室。編集室に住み続けている。家族はいない。独身。六十代で廃刊、七十二の今もここにいる」
建物の裏に回った。裏庭がある。狭いが、洗濯物が干してある。男物のシャツとタオル。乾いている。取り込み忘れだ。
「拠点としての条件は」
「一階が使える。印刷場は広い。机を入れて、PCを置いて、資料を広げる場所にできる。二階は御手洗が住んでいるから手をつけない。問題は」
「御手洗に許可を取れるかどうか」
「それと、御手洗が何者か。機構と接点があるなら、敵の中に拠点を置くことになる」
奏は段ボール箱を外から数えた。見える範囲で三十箱以上。一箱に数百枚の取材資料が入っているとすれば、総量は一万枚を超える。
一万枚の取材資料。
その中に、機構の痕跡が残っている可能性はあるか。地方紙が三十年間この地域を取材していたなら——この地域で起きた不自然な出来事、説明のつかない人物の消失、広告主の突然の引き揚げ、それらが記録の断片として残っているかもしれない。
「桐嶋さん。御手洗に接触する前に、この建物の大家に話を聞けますか」
「大家は地元の不動産屋だ。明日の午前に約束を取ってある」
手際がいい。元公安。段取りは桐嶋の領域。
大家のもとに向かう道すがら、海沿いの道を歩いた。堤防の上からは東京湾が見える。対岸は横浜の方角だ。船が一隻、沖合をゆっくり進んでいる。
「ここなら、少なくとも、東京からは離れている」
「物理的な距離は防御の一種だ」桐嶋が言った。
「でも、機構は全国で動いている」
「動いている。だが、監視には人手が要る。東京から二時間の場所を常時監視するのは、コストが合わない。機構も予算で動く」
予算で動く。機構を超常の組織ではなく、予算と人員で運営される官僚機構として見る。桐嶋の発想。
駅に戻って、帰りの電車を待った。ホームに二人だけ。
「桐嶋さん。一つ確認したいんだが」
「何だ」
「御手洗が三十年分の資料を捨てなかった理由。分かりますか」
「推測だが、使う日が来ると思っていたんじゃないか。廃刊させられた人間は、自分が集めた記録だけが武器だと知っている」
武器。
帳簿が武器であるように、取材資料もまた武器になる。
「私たちに必要なものが、あの段ボールの中にあるかもしれない」
「ある。俺はそう思っている」
電車が来た。二両編成のディーゼルカー。乗り込んだ。車両はほぼ空で、海側の席に二人で座った。
窓の外に海が広がっている。夕日が水平線を赤く染めている。
奏はコートのポケットから手帳を出した。今日の観察を書き留める。建物の外観。段ボールの数。洗濯物の状態。自転車のタイヤの空気圧。
桐嶋は窓の外を見ていた。夕日を見ているのか、海を見ているのか、何も見ていないのか。表情からは読めない。
「きれいだな」
桐嶋が言った。海の夕日を見て。奏は驚いた。桐嶋がそういうことを言うのは初めてだった。
「……ええ。きれいです」
電車が内房線を走る。海岸線に沿って、ゆっくりと。
二人と一つの目的。そして、三十年分の段ボール箱が待っている場所。
拠点は、まだ手に入っていない。だが——見つけた。