小説置き場
再建屋 梶 誠一

第1話「封筒」

3,190文字 約7分

十月の湊裏区は朝から雨で、湾岸の湿気を含んだ重い雨粒が傘に当たるたび鈍い音を立てていた。傘に当たる音が鈍く、アスファルトに跳ねる飛沫が靴の甲を濡らす。

 黛奏はコンビニの袋を片手に、築四十年のアパートに戻った。外階段の手すりは錆びていて、雨の日は赤茶色の水が指につく。三階まで上がる。

 郵便受けは各部屋のドアの横に取り付けられている。三号室の郵便受けだけ、名前のプレートが空白だった。空白のまま二年が経つ。表札を出す理由がない。

 その郵便受けに、茶封筒が差し込まれていた。

 奏は傘を畳み、封筒を抜き取った。A4サイズ。厚みは七ミリ程度。用紙にして十五枚前後と推定した。宛名はない。切手もない。消印もない。

 誰かが直接入れた。

 鍵を開けて部屋に入る。六畳一間。入口の左手に小さなキッチン。右手にユニットバス。窓は一つ。南向きだが、隣のビルに遮られて午前中しか日が入らない。今は曇天の午後三時で、部屋は薄暗い。

 家具はテーブル、椅子、布団、小さな本棚。本棚には翻訳用の辞書が三冊と、国税六法の古い版が一冊。テーブルの上にはノートパソコンが一台。翻訳の下請け仕事が三件、納期を待っている。英日のマニュアル翻訳。単価は安い。月の収入は手取りで十二万円に届かない。

 奏は封筒をテーブルの端に置いた。コンビニの袋からおにぎり二つとペットボトルの水を出し、先にインスタントコーヒーを淹れた。安い粉を規定量の半分だけ使う。お湯は八十五度。三分待つ。薄い琥珀色の液体がカップに広がった。濃い味が苦手なのではなく、この濃さに慣れてしまっただけかもしれない。本人にも区別がつかなくなっている。

 おにぎりを一つ食べた。昆布。もう一つは夕食にとっておく。

 椅子に座り、封筒を手に取った。まず事実を確認する。封筒を開けた。

 中身は、コピー用紙にプリントされた資料。紙の質は市販のもので、特注品ではない。インクはレーザープリンタ。ホチキス留めなし。ページ番号なし。

 一枚目。表題はない。代わりに、日付と番号だけが左上に印字されている。二〇一七年三月十四日。整理番号〇四一八―B。見覚えのない書式で、どの官庁のフォーマットとも一致しない。

 読み始める。

 最初の三枚は、ある人物の経歴と社会的活動の記録だった。名前は黒塗りにされている。だが記載された経歴の要素——出身大学、入省年度、配属先、担当案件の時期——を組み合わせれば、特定は難しくない。国税局の調査官。専門は法人税務調査。二〇一五年に上司の不正を発見し、内部告発の準備に入った人物。

 奏は三枚目を読み終えた時点で、コーヒーカップを置いた。音を立てないように置いた。

 四枚目から、その人物に対して行われた「処理」の手順が記されていた。

 ステップ一。対象者の上司に匿名の情報を流す。内容は対象者の私的な弱点に関するもの。事実である必要はない。上司の視線を変えること自体が目的であり、それだけで対象者の発言の信用度は二割下がる。

 ステップ二。対象者の銀行口座に、説明困難な入金記録を作る。金額は五十万円から百万円の範囲。贈収賄を疑わせるに足り、かつ日常の入出金に紛れて対象者が即座には気づかない程度。気づいたときには記録が確定しており、「知らなかった」という弁明は逆に疑惑を深める。

 ステップ三。対象者の配偶者の職場に、対象者の「問題行動」を示唆する連絡を入れる。具体的な告発ではなく、曖昧な懸念の表明にとどめる。配偶者が対象者に確認する。対象者は否定する。否定の仕方が不自然に見える。家庭内に亀裂が入る。

 ステップ四。対象者が反論を試みた場合、内部告発の形式を装って対象者自身を加害者として告発する。証拠は巧妙に構成されている。この段階で、対象者は自分が攻撃されていることにようやく気づく。だが、すでに上司の信頼を失い、同僚は距離を置き、家庭は揺れている。誰に助けを求めればいいのか分からない。

 ステップ五。省略。

 ステップ六。対象者の社会的基盤が完全に崩壊した時点で、接触を停止する。以降、一切の関与の痕跡を残さない。対象者は「自滅した人間」として処理される。

 奏はコーヒーを一口飲んだ。冷めていた。

 資料のステップ一から四までは、二年前に奏自身に起きたことと正確に対応していた。順番も、手法も、時系列の間隔も。

 上司の横領——年間で三千万円規模の架空経費処理——を発見したのは二〇二四年の六月だった。証拠を整理し、内部通報制度を通じた告発の準備を始めた。その三日後に、身に覚えのない五十二万円の入金が口座に記録された。翌週、母親の勤務先の病院に匿名の電話があった。二週間後、奏自身が証拠捏造と業務妨害の加害者として告発された。

 懲戒免職。退職金なし。

 弁護士に相談した。だが口座の入金記録は物理的に存在しており、告発の証拠は精巧に作られていた。弁護士の表情が回を追うごとに曇っていったのを、奏はよく覚えている。

 ステップ五だけが省略されている。

 奏はその空白を見つめた。三十秒の沈黙。窓の外で雨が強くなった。雨粒がガラスを叩く音が、沈黙を埋めている。

 表情は変わらなかった。

 残りの資料に目を通す。五枚目以降は、同様の「処理」が行われた別の事例が四件、それぞれ二枚ずつ記されていた。

 文部科学省の元課長補佐。教科書検定に関する不正を発見。処理後、うつ病の診断を受けて退職。

 国土交通省の元技官。道路工事の入札談合を記録。処理後、交通事故による入院。復職せず。

 農林水産省の元係長。補助金の不正受給を調査。処理後、家族が転居。本人の所在不明。

 総務省の元主査。通信事業の許認可に関する問題を指摘。処理後、SNS上での集中的な誹謗中傷。精神科への通院記録あり。

 いずれも、ステップ五は省略されていた。

 最後の一枚は白紙で、裏も表も、何も書かれていない。

 奏は白紙を裏返し、窓際に持っていって残光に透かした。透かし文字も、不可視インクの痕跡もない。紙の繊維以外に何もない。ただの白紙。

 ただの白紙が、十四枚の処理記録の末尾に綴じられている。

 意味がないなら入れない。意味があるなら読めるようにする。どちらでもないということは、読む側に意味を作らせるつもりだ。

 誰が送ったのか。なぜ今なのか。ステップ五には何が書かれていたのか。そしてこの白紙は、招待状なのか、警告なのか。

 奏はコーヒーを飲み干した。カップを洗った。スポンジで三回こすり、水で流し、布巾で拭いて棚に戻す。手の動きは正確で、迷いがない。

 ノートパソコンを開いた。翻訳の納品を一件片づけた。英文のマニュアルを日本語に変換する作業は、思考の表層だけを使えば済む。指がキーを叩いている間、脳の別の場所で封筒の中身が反芻されていた。

 二時間後、納品メールを送信した。

 それから、もう一度資料を最初から読み直した。今度は赤ペンを手元に置いて。

 雨は深夜まで降り続けた。

 奏の表情は、最後まで変わらなかった。変わる必要がなかった。怒りは二年前に通り過ぎている。悲しみはその半年後に通り過ぎた。残っているのは、自分の人生がどのような設計図に基づいて壊されたのか、その構造を知りたいという一点だけだった。構造が分かれば、対処法がある。

 封筒には差出人の名前がない。だが、この精度の資料を複数省庁にまたがって作成できる人間は限られる。五人か。十人か。いずれにしても、官僚機構の外側にいる人間ではない。

 奏は白紙のページをクリアファイルに入れ、テーブルの引き出しにしまった。鍵はかけなかった。この部屋に盗む価値のあるものは、今日からこの封筒だけだ。

 翌朝、いつもと同じ六時半に起きた。いつもと同じようにコーヒーを淹れた。規定量の半分の粉。いつもと同じように翻訳の仕事を始めた。

 ただ、ブラウザのタブが一つ増えていた。

 国立国会図書館デジタルアーカイブ。検索ワードは「戦後 行政機構 非公開組織」。

 黛奏の、二度目の調査が始まった。