小説置き場

第9話「プロセス実行中につき丸腰」

1,629文字 約4分

計算が始まって四時間が経った。世界で一番高い電卓を、世界で一番暗い場所で回している——五台のジャンク端末が暗い廃トンネルの中でかすかに唸り、画面に数字が流れている。進捗バーは三十二パーセント。思ったより遅い。CPUが古すぎる。

 俺のデバイスはバッテリーをクラスターに回しているので画面すら点かない。丸腰。首から下げた鉄の塊は、今は一・二キロの重りでしかない。

 リサは廃トンネルの分岐路の手前に座っていた。壁にもたれて、目を閉じている。寝ているのではない。耳を澄ませている。

「足音は三種類に分けられるの」

「三種類?」

「一つ目は金属面を歩く音。二つ目はコンクリート。三つ目は水たまり。このトンネルの周辺は床の素材がバラバラだから、歩く場所で音が変わる。モデレーターのブーツは硬い。スラム住民のスニーカーは柔らかい。靴底の材質で判別できる」

「……どこで覚えたの、そんなこと」

「エンタープライズのセキュリティ訓練。接近する相手の脅威度を足音だけで判別する。屋内警護の基本よ」

 令嬢の基本が物騒すぎる。

 リサは目を閉じたまま、周囲の音を聴いている。圏外地帯だから通信由来のノイズはない。純粋な物理的な音だけ。風。トンネルの壁が軋む音。遠くで水が滴る音。

「一つ、聞こえた」

 俺は体を固くした。

「金属面。軽い。ブーツじゃない。スニーカーか素足。一人。距離は……五十メートルくらい」

「モデレーターじゃない?」

「たぶん。でも近づいてる」

 俺は手回し懐中電灯を消した。暗闇。五台の端末の画面の光だけが残る。

 足音が近づいてくる。トンネルの奥から響く音。コツ、コツ、コツ。

 止まった。

 分岐路のあたりで、止まった。

 十秒。二十秒。

 足音が遠ざかっていった。

 「行った」とリサが言った。

 俺は息を吐いた。

「誰だろうな」

「地下に住み着いてる人でしょう。圏外地帯にも人はいる。通り過ぎただけ」

「だといいけど」

 計算の進捗バー。三十四パーセント。まだ六割以上残っている。

 このペースだと——完了まであと八時間。朝まで。

「リサ。交代で寝ろ。ずっと聴いてるのは持たない」

「あなたが寝て。見張りは私がやる」

「俺はデバイスがないと何もできない。起きてても寝てても同じだ。お前が倒れたら二人とも死ぬ」

「……」

「二時間で交代。俺が先に寝る」

 リサは頷いた。

 俺は壁にもたれて目を閉じた。眠れるとは思わなかった。暗い。寒い。硬い床。そして五台の端末が計算している音。ファンの回転が五つ重なって、かすかなハーモニーを作っている。

 ——眠れた。

 リサに肩を叩かれて起きた。二時間後。

「交代。四十八パーセント」

 半分近い。いいペースだ。

「何かあった?」

「足音が二回。どちらもスニーカー。通り過ぎた」

 で、その結果がこれなわけだが。

 リサは壁にもたれて目を閉じた。三十秒で寝息が聞こえた。体力の使い方がうまい。

 無意識に右耳の後ろに手が伸びた。俺は分岐路の近くに移動した。耳を澄ませた。

 リサのように足音の材質は判別できない。だが、音が近いか遠いかくらいは分かる。

 暗闇の中で、一人で見張る。

 こんな経験は初めてだった。デバイスがあるときは、常に何かの画面を見ている。AR、チャット、ログ、コード。情報の中に没入している。だが今は何もない。目の前に暗闇。耳に静寂。手元にはただの重い鉄の塊。

 生まれて初めて——自分の体だけで、何かを守ろうとしている。

 計算を走らせている五台の端末。そしてその向こうの壁で眠っているリサ。

 守るものがある。そして俺には今、守る手段がない。

 この無力さが——怖い。

 でも不思議と、全部を投げ出したいとは思わなかった。

 なぜだろう。

 リサが寝息を立てている。規則正しい。安心して眠っている。俺が見張っているから。

 ——ああ。

 信頼されている。

 利用規約で結んだ契約。利害の一致。ビジネスだと言った。だがリサは今、俺の見張りを信じて眠っている。これはビジネスではない。

 進捗バー。五十七パーセント。

 朝まで、あと五時間。

 俺は目を開けたまま、暗闇を見つめ続けた。