小説置き場

第8話「ジャンク・クラスター」

2,519文字 約6分

圏外地帯は、東京の地下深くにあった。新宿駅の地下六階から更に奥へ進んだ先。戦後に掘られて放棄された旧連絡トンネル。通称「ラグの底」。ニューロ・リンクの中継信号が一切届かないエリアで、ARも通信も完全に沈黙する。視界にウォーターマークすら出ない。文字通りの圏外。

 初めてウォーターマークが消えた瞬間、リサが立ち止まった。

「消えた」

「ああ。ここでは出ない。通信がないから」

「……何もない」

 リサの目が大きく開いていた。フリープランのグレーの透かし文字も、凍結解除後に残っているはずのシステムログも、何も表示されていない。ただの視界。ただの空間。

「これが——チップが入る前の世界?」

「チップは入ってる。通信が来ないだけだ。でもまあ、感覚的にはそうかもな。何もない視界」

 リサは数秒間、何も言わなかった。目の前の暗いトンネルを、自分の目だけで見ていた。

 圏外地帯は、打ち捨てられた地下の廃トンネルだった。苔むしたコンクリートの壁と、錆びた鉄扉。天井から結露が滴り落ちている。電灯はない。手回し懐中電灯の白い光だけが、二人の周囲を照らしている。地上の喧騒は遠い。ここには東京の音が何一つ届かない。

 オヤジに最後に頼んだ荷物が、ここにある。

 逃げる前日、オヤジに連絡して、直接ではなく闇市場の伝言板を通じて、ジャンク端末五台の調達を頼んでいた。代金は後払い。オヤジは何も聞かずに、指定したトンネルの入口に荷物を置いてくれた。

 ダンボール箱を開けた。中に端末が五台。全部型落ち。画面にひびが入っているものが二台。だが電源は入る。CPUは動く。それで十分だ。

「これを全部繋ぐの?」

「物理接続で数珠つなぎにする。USBケーブルとLANケーブル。通信は使わない。全部有線。ローカルのクラスターを組む」

 俺は工具を広げた。ドライバー、ハンダごて、ケーブルの束。デバイスの中身をカスタマイズするのは慣れている。中学のときから、ジャンクパーツだけで何百回もやってきた。

 端末を一台ずつ開いて、内部のストレージを初期化し、計算用のプログラムだけを書き込む。余計なものは全部削る。OSもGUIも不要。数値を計算するだけの機械にする。

「リサ。仕様書の再現を始めてくれ」

 リサは壁にもたれて座り、膝の上にメモ帳を広げた。ペンを持つ。

「エンタープライズ契約の付属文書C。セキュリティキー生成アルゴリズムの基本仕様」

 リサは目を閉じた。五秒。

 書き始めた。

 数式。パラメータ名。ハッシュ関数の型。シードの構成要素。ローテーション周期の計算式。

 ペンの動きが速い。迷わない。記憶の精度が異常だ。

「お前、記憶力おかしくないか」

「エンタープライズの契約者は、契約書の全条項を暗記することが推奨されていたの。万が一の紛争時に、自分が何に同意したかを即座に主張できるように。十二年間、毎年更新される契約書を全部覚えた」

「十二年分の契約書を暗記してるのか」

「最新版だけよ。過去の版は忘れた。でもアルゴリズムの仕様は変わっていないと思う。基本設計は初版から同じはず」

 リサが書いたメモを受け取った。目を通す。

 キー生成のシードは、アカウントIDの下位32ビットと凍結時刻のUNIXタイムスタンプのXOR。そこにSHA-256をかけて、出力の上位128ビットがキーになる。ローテーションは72時間ごとに、前回のキーをシードとして再帰的に生成。

 つまり、最初のシード(アカウントIDと凍結時刻)が分かれば、何回ローテーションしても現在のキーを計算できる。

「リサ。お前のアカウントIDは」

「覚えてる」

「凍結時刻は」

「十月三日、午前二時十四分三十七秒。東京時間。秒まで覚えてるのは——その瞬間、視界が真っ赤になったから」

 ACCOUNT SUSPENDEDの赤い文字が、全視界を覆った瞬間。それは忘れられないだろう。

 脳が2ミリ秒で計算した。いける。

「十分だ。計算できる」

 クラスターの配線を始めた。五台の端末をケーブルで繋ぐ。一台目がマスター、残りの四台がワーカー。分散処理の基本構成。通信は使わない。全部有線。電波はゼロ。

 問題は電源だった。

 圏外地帯にはコンセントがない。持ってきたバッテリーパックが三個。一個で端末一台を約六時間駆動できる。五台中三台をバッテリーで動かし、残り二台は俺のデバイスのバッテリーから給電する。

 俺のデバイスのバッテリーを分けるということは、計算中俺のデバイスは本当のゼロになる。

「クロヤ。あなた、それ——」

「分かってる。完全に丸腰だ。計算が終わるまで、何もできない」

「何時間くらい」

「やってみないと分からない。最短で八時間。最長で——二十四時間」

 リサが黙った。

「二十四時間、私が見張る」

「お前に何ができる」

「少なくとも、誰かが来たら気づくことはできる。耳はいいの。上位レイヤーのセキュリティ訓練で、足音の判別を叩き込まれた」

 足音の判別。そんな訓練があるのか。

「来たらどうする」

「逃がす。計算中の端末を抱えて走る。……ドレスじゃなくてカーゴパンツにしておいて正解だったわね」

 リサが少しだけ笑った。暗い廃トンネルの中で、懐中電灯の白い光に照らされた笑顔。

 この女、本当に適応力が高いな。

「始めるぞ」

 マスター端末にコマンドを打ち込んだ。計算プログラムが起動する。五台の端末が一斉に唸り始めた。小さなファンの音。CPUが全力で回っている音。

 俺のデバイスの画面が消えた。バッテリーをクラスターに回したから。

 丸腰。

 暗いトンネルの中で、五台の端末がかすかに光っている。計算中の数字が画面を流れている。

「あとは待つだけだ」

「待つのは得意よ。上位レイヤーの晩餐会で三時間黙って座っていたこともある」

「それは、つらそうだな」

「つらかった。でもあれに比べたら、ジャンクの端末を見守るのは楽しい」

 楽しいのか。この状況が。

 俺は壁にもたれて座った。リサは反対側の壁に座った。間にクラスターがある。五台の端末が計算を続けている。

 静かだった。圏外地帯には何の音もない。ARの通知音も、広告の音声も、モデレーターのサイレンも。ただ、端末のファンの音と、二人の呼吸と、天井から落ちる水滴の反響だけ。

 東京の真下にいるのに、東京から一番遠い場所だった。