小説置き場

第7話「トレースバックの紳士」

2,087文字 約5分

堂本は暴力を使わなかった。俺とリサはアパートの窓から見ていた。堂本が闇市場に入っていく。黒いスーツが、裏路地のくすんだ風景の中で浮いている。だがその浮き方が妙に堂々としていた。場違いであることを、逆に武器にしている。

「追う?」

「追わない。窓から見る。あいつの動き方を観察する」

 堂本は闇市場の店を一軒ずつ回っていた。急がない。立ち止まって、店主と話す。話す、というより尋ねる。穏やかに。丁寧に。

 最初に声をかけられたのは、衣料品の露店だった。布を広げて並べている老婆。堂本は何かを見せた。距離があって見えないが、たぶん端末の画面、リサの写真だろう。

 老婆が首を振った。堂本は頭を下げて、次の店に行った。

「あれ、脅してない」

「そう。脅さない。あれが回収屋の流儀よ」リサの声が低かった。「オムニバース社の債権回収部門は、暴力を使わない。代わりに契約を使う」

「契約?」

「この裏路地の店は、大半がオムニバース社のインフラ上で営業してるわ。通信も、決済も、在庫管理もオムニバースのフリープラン経由。つまり全員がユーザー。そしてユーザーには利用規約が適用される」

 リサが窓際で腕を組んだ。

「利用規約の第四十七条。『オムニバース社の正当な業務に対する妨害行為を禁ずる。違反した場合、アカウントの利用制限を課すことがある』。堂本はこの条項を根拠にして、協力を求めている。協力しなければ——」

「アカウント利用制限。フリープランの更なる制限ってことか。AR視界の広告が倍になる?」

「あり得る。広告の頻度が倍になる。充電スポットの使用権が剥奪される。法律的には何も問題ない。利用規約に書いてあるから」

 規約で人を縛る。暴力じゃなく、文字列で。

 堂本がジャンク屋のオヤジの前に立った。

 俺の心臓が跳ねた。

 オヤジは堂本を見上げた。禿頭にバンダナ。歯が三本ない。でも目はまっすぐだ。

 堂本が何かを言った。オヤジが何かを返した。声は聞こえない。距離がある。

 三十秒。一分。

 堂本が端末を操作した。何かを見せている。オヤジの顔が変わった。

「やばい。オヤジの利用規約を引っ張り出してる」

「……あの人、ジャンクパーツの売買でオムニバースのマーケットプレイスを使ってるでしょう。出品記録も決済記録も全部向こうが握ってる」

 握られている。データを。取引の記録を。通信のログを。フリープランの人間は、利便性と引き換えに全ての行動をオムニバース社に渡している。

 オヤジが——何かを話した。

 俺の体が冷えた。

 オヤジの視線が、一瞬だけアパートの方向に動いた。

 堂本は見逃さなかった。にこりと笑って、頭を下げた。それだけだ。声を荒げない。脅さない。「ありがとうございます」と言って、闇市場を出ていった。

 リサの隣で、俺は拳を握っていた。

「オヤジが——」

「責めないで」リサが言った。静かに。「あの人は自分の商売を守っただけ。回収屋は『この場所にBAN者がいるかもしれない』という確認をしただけで、密告を強制していない。でもオヤジが視線を動かした。それだけで十分なの」

「十分?」

「堂本は方角を掴んだ。このアパートの周辺にいると分かった。次はもっと狭い範囲を探しに来る」

 オヤジが悪いんじゃない。規約が悪い。規約を使う人間が。

 いや。規約は文字列だ。文字列に善悪はない。使い方の問題だ。

 巻き戻せ。それを言うなら、俺の詐欺UIも同じだ。

 考えるのを止めた。今は考える時間じゃない。

「引っ越すか」

「どこに。この街で、BAN者を隠してくれる場所なんてある?」

「一つある。圏外地帯」

 リサの目が動いた。

「ニューロ・リンクの通信が完全に途絶しているエリアがある。東京の地下深部——廃トンネルや古い地下通路。モデレーターの監視も届かない。当然、堂本の端末も圏外になる。検索できない場所なら、見つけられない」

「でも圏外ってことは、あなたのデバイスも使えないでしょう」

「使えない。計算も、通信も、全部止まる。本当の意味で何も持たない場所になる」

 沈黙。

 窓の外で、オヤジが店の棚を整理している。リサが仕分けた棚。きれいに並んだパーツ。昨日まで、あの棚の前で四時間しゃがんでいた女の居場所を、オヤジは視線一つで教えてしまった。

 オヤジの顔が見えた。遠いが、表情は分かる。

 申し訳なさそうな顔をしていた。

「行こう」リサが言った。「圏外に」

「まだ計算を始めてない。キー逆算のクラスターも組んでない。ジャンク端末の調達も」

「全部、圏外に持っていく。計算はオフラインでもできるでしょう。通信が要らないなら、圏外で問題ない」

 正しい。通信を使わないローカルクラスターなら、圏外でも動く。

 問題は、圏外地帯がどんな場所かだ。モデレーターも来ないが、別の危険がある。電気もない。水もない。東京の地下の最深部、地上の街からは完全に切り離された場所。

 でも選択肢は二つしかない。ここにいて堂本に見つかるか、圏外に逃げるか。

「三十分で荷物をまとめろ。持てるものだけ持つ」

 リサは頷いた。部屋に戻っていった。

 俺は窓の外を最後にもう一度見た。オヤジが干し肉を干している。いつもの光景。

 ——ごめんな、オヤジ。

 声には出さなかった。