小説置き場

第6話「キー・ローテーション72h」

2,468文字 約5分

四時間後、デバイスが復活した。充電ランプが赤から緑に変わった瞬間、俺は自分の右腕が戻ってきたような安堵を感じた——ランプの色が変わるだけで心拍が上がる人生を、誰が注文した。大げさじゃない。このデバイスがなければ俺はただの無課金だ。殴られたら終わり。デバイスが動いている間だけ、俺は戦える。

 バッテリー残量百パーセント。通信モジュール正常。物理キーボードの接触良好。

「終わった?」

 リサがオヤジの棚の仕分けを終えて戻ってきた。カーゴパンツの膝に埃がついている。四時間、ずっと棚の前にしゃがんでいたらしい。

「終わった。ありがとう、オヤジ」

「おう。嬢ちゃんのおかげで棚がすっきりした。また何かあったら言ってくれ」

 アパートに戻った。

 六畳間。俺は椅子に座り、リサは壁にもたれて座った。デバイスの画面を開いて、昨日中断した話の続きを始める。

「七十二時間の話だ。凍結アカウントのセキュリティキーが七十二時間でローテーションされるって言ったな」

「ええ。凍結された瞬間のキーは、七十二時間後に自動更新される。更新後の新しいキーは、凍結された本人にも分からない。システムが自動で生成するから」

「つまり、凍結から七十二時間以内なら、お前が知っている旧キーでアカウントに侵入できる可能性がある」

「理論上は。でも、私が凍結されたのはもう一週間前。キーは既にローテーションされている」

「一回だけか?」

「……え?」

「ローテーションは一回だけか。七十二時間ごとに繰り返すのか」

 リサの目が動いた。考えている。

「七十二時間ごとに繰り返す。永久凍結の場合、キーは七十二時間サイクルで自動更新され続ける。だから時間が経つほど——」

「元のキーとの距離が離れる。でも、ローテーションのアルゴリズムに規則性があれば?」

 リサが息を呑んだ。

「あなた、もしかして——逆算できると思ってる?」

「ローテーションが完全なランダムなら無理だ。でも、エンタープライズのセキュリティキー生成アルゴリズムはお前が知ってるだろ。仕様を。契約時に開示される情報の中に」

「ある」リサの声が変わった。低く、鋭く。思い出している。「エンタープライズ契約の付属文書Cに、キー生成アルゴリズムの基本仕様が記載されているわ。乱数生成のシードに、アカウントIDと凍結時刻のハッシュが使われている。シードが分かれば——」

「ローテーション後のキーを計算できる」

 二人の間に、沈黙が落ちた。

 できるかもしれない。理論的には。リサが覚えている仕様書の内容と、俺のデバイスの計算能力を合わせれば、現在のキーを逆算できる可能性がある。

「ただし」俺は指を一本立てた。「計算には時間がかかる。デバイスの処理能力はゴミだ。上位プランのサーバーでやれば数分の計算が、こいつだと」

「何時間?」

「やってみないと分からない。最悪、数日。しかも計算中はデバイスが他のことに使えない。つまり俺が丸腰になる」

「また充電問題に戻るわけね」

「充電じゃない。今度は処理能力の問題だ。計算を走らせている間、俺のデバイスは電卓になる。詐欺UIも割り込みも使えない」

 リサは考え込んだ。

「並列処理は? 複数の端末に分散させるとか」

「ジャンクの端末なら何台か手に入る。だが通信で繋ぐと、通信ログが残る。モデレーター部隊の監視にかかるリスクがある」

「じゃあ、物理的に繋ぐ。通信を介さない直接接続で」

 俺はリサを見た。

 通信を介さない直接接続。つまり、ジャンク端末をケーブルで数珠つなぎにして、ローカルのクラスターを組む。通信ログはゼロ。モデレーターの監視網には引っかからない。

「……お前、意外とこっち側の発想ができるな」

「上位のARレイヤーでも、モデレーターに見られたくない通信はオフライン処理が常識よ。やり方を知っているだけ」

 巻き戻せ。何が必要で、何が足りない。計画が形になり始めた。

 一。ジャンクの端末を何台か調達する(オヤジに相談)。  二。物理接続のクラスターを組む(俺の仕事)。  三。リサがエンタープライズの仕様書を記憶から再現する。  四。キー生成アルゴリズムを逆算する計算を走らせる。  五。計算が完了するまで、俺は丸腰で過ごす。

 五番目が問題だ。

「計算中の護衛が必要だな」

「護衛って、誰が」

「いない。だから計算を走らせるタイミングを選ぶ。モデレーターの巡回パターンを読んで、一番安全な時間帯に」

 リサが頷いた。

 このとき、外から声が聞こえた。

 闇市場の方角。怒鳴り声ではない。低い、事務的な声。聞き覚えがある種類の声だ。モデレーター部隊の声に似ているが、少し違う。もっと慇懃で、もっと冷たい。

 窓に寄って、下の通りを覗いた。

 男が一人、闇市場の入口に立っていた。黒いスーツ。AR装甲ではない。スーツだ。だが胸ポケットにオムニバース社のロゴが刺繍してある。モデレーターではない。営業だ。

 いや、回収屋だ。

 オムニバース社の債権回収部門。滞納者のアカウントを差し押さえ、デバイスを回収し、チップの使用権を取り消す連中。モデレーターが「暴力装置」なら、回収屋は「経理の暴力」だ。法的に、契約上、完全に合法な手段で人間の異能を取り上げる。

 回収屋が闇市場に来ている。珍しいことではない。アンダー・ラグには滞納者が山ほどいる。だが、あの男の視線がアパートの方を向いている。

「リサ。あの男を知ってるか」

 リサが窓から覗いた。二秒で顔色が変わった。頭の処理が追いつかない。

「知ってる。堂本。エンタープライズの債権管理部。私の家の——」

 家の。

「私の家のアカウントを凍結する手続きを執行した人間よ」

 スタンダードの末端とは格が違う。こいつは上位レイヤーの人間だ。合法的に、書類と契約で人間を殺す側の人間。

 回収屋は闇市場の入口で誰かと話している。ジャンク屋のオヤジではない。別の店主だ。何かを尋ねている。

「BAN者を探してる」

「……たぶん。私を」

 七十二時間の計算を始める前に、まず——生き延びる順番を考えないといけない。

 リサの目が、窓の向こうのスーツの男を見据えている。凍結ウォーターマークの赤い光が、窓ガラスに反射していた。