ゼロを助けられないまま、おれたちはメインサーバールームの奥に押し込まれた。
押し込まれた、というのは比喩ではない。ゼロに接続された赤い光の線が突然拡散し、サーバールーム全体に蜘蛛の巣のように張り巡らされた。おれとリサは光の線を避けながら後退するしかなかった。
そして、最奥の壁が開いた。
壁の向こうに、七つの棺があった。
棺というのはおれの第一印象で、正確には培養槽だ。人間一人分のサイズの透明なカプセルが、半円形に配置されている。中にはそれぞれ液体が満たされていて、そして——人間が浮かんでいた。
七人。全員が目を閉じている。全員の頭部に、無数のケーブルが接続されている。
「これが」
「私だ」
Rootの声が、今度は七つの培養槽から同時に響いた。七人の口が同時に動いた。同じ言葉を、微妙にズレたタイミングで。和音のような不協和音。
「一号から七号。初代Root——サカキバラ・ヨウスケの意識をベースに、歴代最高責任者の意識が順次統合されている。最も古い意識は十二年前、最も新しい意識は三年前に同期された」
リサの顔が真っ白だった。エンタープライズにいた頃にすら知らなかった事実なのだろう。
「意識の同期。これがRootの正体」
「正体というほど大層なものではない。単なるアーキテクチャだ」
一号の培養槽——最も古いカプセルの中の人間が、目を開けた。五十代後半に見える男。痩せていて、穏やかな顔立ち。だが目の奥に、異常な密度の知性が光っている。
「サカキバラ・ヨウスケ。オムニバース社の創設者にして、異能サブスクリプションシステムの設計者。おれの両親を殺したシステムの親」
「殺したという表現について議論する余地はあるが、設計者であることは認める」
一号の声は穏やかだった。通路で聞いた時と同じ。だが今は、六人分の意識が重なっていない分、より人間らしく聞こえた。
「なぜ意識を同期した」
「一人の人間の判断力では、このシステムを運用できないからだ。百二十万人の脳波データを管理し、四百万人の異能インフラを維持し、国家との交渉を行い、技術開発を継続する。一人の人間の認知能力では不可能な規模だ」
「だから七人分の脳を統合した」
「そうだ。一号の判断に偏りがあれば、二号が補正する。三号が倫理面を検証し、四号がリスクを計算し、五号が技術的整合性を確認する。合議体として、個人よりも正確な判断ができる。理論上は」
「理論上は。実際は」
一号が微笑んだ。
「実際は、七つの意識が衝突し続けている。マージコンフリクト。同じ問題に対して七通りの解答が生成され、その統合に膨大なリソースが消費される。生体ボットネットの演算リソースの三割は、実はこの合議体の内部処理に使われている」
三割。百二十万人の脳波の三割が、この七人の合意形成のために搾取されている。おれの両親の脳波も、その三割の中にあったのかもしれない。
「おれが聞きたいのは、テネシー計画のことだ」
空気が変わった。七つの培養槽の液体が、僅かに波立った。
「どこでその名前を知った」
「データセンターの端末からリサが抜いた。断片的だが、キーワードは拾えた。テネシー。意識同期の拡大。全ユーザー適用」
沈黙が五秒。七つの培養槽が同時に脈動した。合議中なのだろう。
「テネシー計画は——」一号の声。「意識同期技術を全ユーザーに拡大する構想だ」
リサが息を呑んだ。
「全ユーザー。四百万人に」
「最終的にはもっと多くなる。だが第一フェーズは東京圏の四百万人だ」
「何のためにそんなことを」
「人類の最適化の証明」
一号の目が光った。穏やかさの奥にある、狂気に近い確信。
「私たち七人の意識統合は、人類史上初めて『複数の人間が一つの判断を下す』ことに成功した事例だ。民主主義では投票で妥協する。独裁では一人が決定する。だが意識同期は、複数の人間の認知を物理的に統合して、全員が納得する結論を生成できる。マージコンフリクトは発生するが、最終的には統合される。これは——対話の究極形だ」
「対話の究極形」おれは反復した。「脳波を強制的に繋いで、全員を一つにすることが対話か」
「強制ではない。テネシー計画では、全ユーザーに段階的に同期を提案する。同意を得て、順次接続する。ゼロのように拒絶する者には——」
「強制接続するんだろ。さっき見たぞ」
一号が沈黙した。三号の培養槽が波立った。
「ゼロのケースは例外だ。メインサーバーの物理破壊を試みた侵入者に対する防衛措置であり——」
「詭弁はいい。見せろ。ゼロが今どうなってるか」
一号が目を閉じた。メインサーバールームの壁面にホログラムが投影された。ゼロの脳波モニター。
ゼロの脳波は——もはやゼロのものではなかった。
波形が変わっていた。ゼロの個人的な脳波パターンの上に、別の波形が重なっている。七号——最も新しい合議体メンバーの脳波パターンだ。ゼロの意識が、合議体に取り込まれようとしている。
「八号にするつもりか」
「ゼロの異能『否定』は、合議体に欠けている機能だ。七人の意識は全て肯定的な判断を下す傾向がある。否定的な視点が欠落していた。ゼロの意識が加われば、より精度の高い合議が可能になる」
おれの頭の中で、パズルのピースがはまった。
Rootはゼロを排除しようとしていたのではない。取り込もうとしていた。ゼロがデータセンターに侵入してくることを、予測どころか、誘導していた。三年前も。今回も。
「ゼロの記憶を消して野に放ち、もう一度侵入させて、今度こそ同期する。そういうシナリオか」
「シナリオという言い方は好まないが、大筋は合っている」
おれの拳が震えた。怒りではない。恐怖に近い感情だ。おれたちは最初から、Rootの手のひらの上で踊っていた。おれが両親のデータを探したことも、EULA迷宮を突破したことも、Pay to Win部隊をリボ払いで無力化したことも——全てがRootの計画の一部だったのか。
「クロヤ」リサが囁いた。「ここにいたら——私たちも同期される」
リサの声に、初めて本物の恐怖を感じた。
正しい判断を下せ。おれは自分に言い聞かせた。
ゼロは今すぐには救えない。Root権限の規約はおれの異能では書き換えられない。力ずくでの切断はゼロの意識を破壊するリスクがある。七人の合議体を相手に、おれとリサの二人では勝てない。
撤退。
認めたくないが、撤退しかない。
「リサ、退路は」
「冷却配管ルートがまだ生きてる。赤い光の線は配管内部には侵入していない。おそらく配管の金属壁がデータリンクを遮断してる」
「行くぞ」
「ゼロは」
「今は無理だ。必ず戻る。だが今は無理だ」
リサが唇を噛んだ。だが頷いた。
おれたちは冷却配管に飛び込んだ。金属の壁がおれたちを包む。赤い光の線が配管の入口で止まった。Rootの声が追いかけてきた。
「また来るんだろう、黒谷クロヤ」
「ああ。来る。次はお前の規約を書き換えに来る」
「楽しみにしている。だが——次に来る時は、一つ考えてきてくれ。システムを壊した後の世界を、君はどうするつもりなのか」
おれは答えなかった。配管の中を這い、統括ノードの球体を抜け、EULA迷宮の残骸を越え、データセンターの外に出た。
夜の空気が冷たかった。裏東京のAR広告が、いつも通り空を埋め尽くしている。
リサが膝に手をついて呼吸を整えた。
「クロヤ」
「何だ」
「Rootの正体。七人の意識の合議体。テネシー計画。全ユーザーへの意識同期。これを外に広めれば——」
「広めても信じる人間がどれだけいる。おれたちの言葉より、毎月の異能サブスクの方が重い。それが現実だ」
おれは空を見上げた。AR広告の隙間から、本物の星が見えた。
ゼロの穏やかな顔を思い出した。あの顔は、ゼロが望んだものなのか。それともRootが作ったものなのか。
分からない。
だが一つだけ分かることがある。おれはあの培養槽には入らない。おれの意識は、おれだけのものだ。マージされない。コンフリクトが永遠に解決しなくても、おれはおれのブランチを生きる。
それだけは、譲らない。