異変に気づいたのは、ゼロの足音が消えた瞬間だった。
通路を歩いていた。おれが前、リサが右後方、ゼロが左後方。三角形のフォーメーション。それが、振り返った時には二角形になっていた。
「ゼロ?」
リサが声を上げた。通路の後方には誰もいない。壁の脈動だけが、規則的に続いている。
「消えた」おれは舌を打った。「いつからだ」
「分からない。足音は三十秒前まで聞こえていたと思う」
三十秒。このデータセンターの構造なら、三十秒あれば別ルートに逸れることは可能だ。通路の分岐は複数あった。おれたちが気づかなかったのは、ゼロの異能——「否定」が、自分の存在感を消すことにも応用できるからだろう。
「裏切りか」
おれは自分で言って、自分で否定した。裏切りではない。ゼロは最初からおれたちと目的が違った。おれは真実を知りたい。リサは仕組みを変えたい。だがゼロは——壊したい。最初からそれだけだった。
「ゼロは話し合いを選ばない」リサが言った。「Rootが警告した通り」
「ああ。メインサーバーの物理破壊を狙ってる」
物理破壊。デジタルのシステムに対する、最も原始的で最も確実な攻撃手段。ハッキングで倒せない壁も、ハンマーで叩けば壊れる。サーバーラックを物理的に破壊すれば、ソフトウェアの防壁は意味を成さない。
ゼロの異能「否定」は、あらゆる防御機構を局所的に無効化できる。電子ロック、認証システム、物理バリア。否定して、通り抜けて、中枢を殴る。単純で、野蛮で、効果的な戦略。
「追うか」
「追うべきだと思う。ゼロが一人でメインサーバーを壊したら——」
「四百万人の異能が消える。Rootが言った通りだ」
おれはハッキング異能でデータセンターの内部マップを引き出した。現在位置から最深部のメインサーバーまでのルートは三本。おれたちが歩いている正規ルート、保守用の裏ルート、そして冷却配管に沿った非常用ルート。ゼロが選ぶとすれば、最も人目につかない冷却配管ルートだろう。
「こっちだ」
おれは壁のパネルをハッキングで開いた。冷却配管が露出する。人一人が這って通れる程度の隙間。快適とは言い難いが、ゼロならここを通る。
配管の中を五分ほど進んだ。膝と肘が金属管にぶつかる。リサが後ろで小さく悲鳴を上げたが、構わず進んだ。
そして——声が聞こえた。ゼロの声ではない。機械的なアラート音。
配管の隙間から下を覗くと、巨大な空間が広がっていた。メインサーバールーム。天井高は十メートル以上。サーバーラックが整然と並んでいる。その中央に、ひときわ大きな黒い筐体がある。メインサーバー。
ゼロはその筐体の前に立っていた。
だが、動いていなかった。
「何やってる、ゼロ」
おれの声に、ゼロは反応しなかった。立ったまま硬直している。
違う。硬直しているのではない。動けないのだ。
ゼロの足元から、赤い光の線が無数に伸びていた。光の線はゼロの脚を這い上がり、腰を巻き、胸を貫通し、首に絡みついている。光ファイバーのような細い線。だが物理的なケーブルではない。AR上のデータリンク——いや、もっと深いレベルのものだ。脳波を直接読み取る接続線。
「トラップだ」リサが青ざめた。「意識同期サーバーへの強制接続」
おれは配管から飛び降りた。三メートルの落差。着地で膝に衝撃が走る。構わずゼロに駆け寄った。
「ゼロ、聞こえるか」
ゼロの目が開いていた。だが焦点が合っていない。瞳孔が異常に開いている。何かを見ている。おれたちには見えない何かを。
「想定内だったよ」
Rootの声が響いた。穏やかに。
「ゼロは以前にも同じことをした。三年前。同じルートを通り、同じメインサーバーの前に立ち、同じように物理破壊を試みた。その時のデータが残っている。行動パターンは予測できていた」
「三年前? ゼロはこのデータセンターに来たことがあるのか」
「二度目だ。一度目の時に、ゼロの記憶は部分的に消去された。だが行動パターンは記憶ではなく人格に根差している。記憶を消しても、ゼロは同じ選択をする。話し合いを拒み、破壊を選ぶ。だから同じトラップが有効なんだ」
おれの背筋が冷えた。ゼロの記憶が消されている。以前にもここに来ている。そしてRootはそれを知っていて、同じ罠を張った。ゼロは自分が二度目だということすら知らない。
「ゼロに何をしてる」
「意識同期サーバーへの接続だ。ゼロの脳波パターンを読み取り、意識の同期準備を行っている。まだ本格的な同期は開始していない。準備段階だ」
「意識の同期。生体ボットネットと同じか」
「似ているが、レベルが違う。生体ボットネットは脳波の演算リソースを搾取するだけだ。意識同期は——意識そのものを接続する。複数の人間の意識を一つに統合する技術。私自身が、その技術の産物だ」
七つの意識の合議体。Rootの正体の片鱗。
「ゼロを離せ」
「離すことはできる。だが、ゼロ自身が望んでいるかどうかは別の問題だ」
「何?」
「ゼロの脳波パターンを見てみろ。君のハッキング異能なら読めるはずだ」
おれは躊躇した。だが、読んだ。ゼロの脳波データに、ハッキング異能でアクセスした。
ゼロの脳波は——安定していた。
恐怖のパターンがない。苦痛のパターンもない。むしろ、穏やかだった。長い間緊張し続けていた弦が、ようやく弛緩したような脳波。
「ゼロは孤独な人間だ」Rootが言った。「否定の異能は、あらゆるものを拒絶する力だ。使い続ければ、人間関係も感情も否定される。ゼロが破壊を選ぶのは、破壊しか残っていないからだ。意識同期は——ゼロにとって初めての接続かもしれない。他者の意識と繋がるという体験」
「黙れ。詭弁だ」
「詭弁かもしれない。だが脳波は嘘をつかない」
おれはゼロの脳波を見続けた。穏やかな波形。眠っている人間の波形に似ている。苦しんでいないのか。
だがそれは罠だ。薬物で脳波を安定させることもできる。強制的に快楽信号を流すこともできる。穏やかな脳波が、ゼロの意思である保証はない。
「リサ」
「分かってる。接続を物理的に切断できるか試す」
リサがゼロの足元の光の線に手を伸ばした。触れた瞬間、リサの指が弾かれた。静電気のような衝撃。
「駄目。防壁がある」
「おれがやる」
おれはハッキング異能を起動した。光の線——データリンクの規約を読み取る。強制接続のプロトコル。認証キーは——Root直轄の最高権限。書き換えられるか。
試みた。規約改竄。おれの異能の真髄。
弾かれた。
Root権限の規約は、おれの異能でも書き換えられない。管理者権限で保護されたファイルに、一般ユーザーが書き込みできないのと同じだ。
「クロヤ」Rootの声。「無理に切断しようとすれば、ゼロの意識に不可逆的なダメージが生じる可能性がある。それでもやるか」
おれは歯を食いしばった。
ゼロの顔を見た。穏やかな表情。見たことがない表情。ゼロはいつも無表情か、皮肉な笑みか、冷たい怒りか。穏やかな顔は一度も見たことがなかった。
「ゼロ」
呼びかけた。返事はなかった。
赤い光の線が、ゼロの首を静かに締め上げている。締め上げているのか、抱きしめているのか。おれには区別がつかなかった。