小説置き場

第48話「ルートアクセスの問答」

2,907文字 約6分

統括ノードの球体を抜けた先に、最深部への通路があった。

 通路というよりは、血管のようだった。壁面が微かに脈動している。有機的なケーブルが無数に束になり、通路の天井と床を這い回っている。温度が上がっていた。データセンターの冷却が追いつかないほどの演算負荷が、この先で発生しているのだろう。

 ゼロが先頭を歩いていた。リサがおれの横。三人の足音だけが、脈動する通路に反響する。

 そして——声が来た。

「ここから先に来る必要はない」

 声は通路全体から聞こえた。壁から、天井から、床から。スピーカーを通しているのか、直接脳波に干渉しているのか、判別がつかない。穏やかな声だった。中年男性のような声。だが微かに複数人の声が重なっているようにも聞こえる。和音のように。

 ゼロが立ち止まった。

「Root」

「ゼロ。久しぶりだな」

 ゼロの肩が僅かに強張った。おれはそれを見逃さなかった。ゼロはRootと面識がある。初めてではない。

「久しぶり、ね。お前とは初対面のつもりだったが」

「お前の記憶が消されているだけだ。だが今はそれはいい」

 Rootの声がおれに向いた。声の方向が変わったわけではない。だが、注意の焦点が移動したのが分かった。

「黒谷クロヤ。フリープラン。ハッキング系異能——規約改竄。非常に珍しいタイプだ。君の異能はシステムそのものに介入する。設計段階では想定されていなかった変異種だよ」

「おれのことを知ってるのか」

「当然だ。百二十万人のフリープランユーザー全員のプロファイルは把握している。君は特に注視対象だった。EULA迷宮を突破した時点で、もう少し早く接触すべきだったかもしれない」

「接触。戦闘の間違いだろ」

「いいや。接触だ。戦闘は非効率的だ。Pay to Win部隊を配置したのは、プロトコル上の手順に過ぎない。本来なら、彼らが君たちを止めるはずだった。まさかリボルビング払いで無力化するとは想定外だったが」

 Rootの声に、微かな笑いが混じった。上品な笑い。嘲笑ではない。

「面白い解法だった。力ではなく、システムの仕様を利用して力を奪う。君の異能の本質はそこにある」

「褒められても嬉しくない。おれの両親のデータを消したのはお前だろう」

 沈黙が三秒。脈動する壁の音だけが聞こえた。

「消した。正確に言えば、物理消去を承認した。死亡したユーザーのデータは、一定期間後に自動的に物理消去される。これはシステムの標準プロセスだ。君のご両親だけを特別に消したわけではない」

「標準プロセス。人間を殺したログを消すことが標準プロセスか」

「殺したという表現は不正確だ。生体ボットネットの演算負荷が直接の死因となったケースは、統計上〇・三パーセント未満だ。大半は間接的な影響——免疫機能の低下、慢性疲労、判断力の低下による事故。因果関係を法的に立証することは極めて困難だ」

「だからデータを消すんだろう。法的に立証されないように」

「それもある。だが主な理由は別だ。ストレージの最適化。死亡したユーザーの脳波データは、もはや演算リソースとして利用できない。保持する合理的理由がない」

 おれの拳が握られた。爪が掌に食い込む。だが声は平坦に保った。

「おれたちはここにシステムを壊しに来た。お前も分かってるだろう」

「分かっている。そして、君たちに問いたいことがある」

 通路の空気が変わった。温度が下がったように感じた。Rootの声のトーンが、ほんの僅かに変化した。穏やかさは変わらない。だが、その穏やかさの奥に、重みが加わった。

「君たちは何を壊したいんだ?」

 単純な問い。だが、その問いの射程は長かった。

「このシステムが無くなれば——全ての人間が異能を失う。現在、東京圏だけで四百万人が異能サブスクリプションの恩恵を受けている。エンタープライズの経営者も、プレミアムの会社員も、フリープランの学生も。全員が。異能を前提に構築された社会インフラ、経済システム、医療体制、防災体制。それが全て崩壊する」

「分かってる」

「分かっていないと思う。分かっているなら、もう少し躊躇するはずだ」

 Rootの声が続いた。

「生体ボットネットは確かに倫理的な問題を含んでいる。フリープランユーザーの脳波を無断で演算リソースとして利用していることは、現行法の枠組みでは明確な違法行為だ。私はそれを認める」

 認めた。おれは少し驚いた。言い訳や否定ではなく、事実を認めた。

「だが、このシステムが提供している異能インフラストラクチャーは、現代社会の基盤になっている。電気や水道と同じだ。いや、それ以上だ。異能による犯罪抑止、災害予測、医療診断支援——年間で推定一万二千人の命が、異能によって救われている。生体ボットネットの間接的な影響で失われる命は、年間推定三百から四百人。数字だけを見れば、システムは正の効果をもたらしている」

「数字の問題じゃない」おれは言った。

「では何の問題だ?」

「同意の問題だ。百二十万人は同意していない。脳波を搾取されることに。寿命を削られることに。知らされてすらいない」

 三秒の沈黙。

「正論だ」Rootが言った。「同意なき搾取は、いかなる統計的正当化も許されない。その通りだ」

「なら——」

「だが、同意を求めた場合、何が起こるか想像できるか? フリープランユーザーに真実を開示すれば、大半がサービスを解約する。解約すれば異能を失う。異能を失えば、異能前提の社会で生活できなくなる。失業、事故、犯罪被害。同意を求めることで救われる命より、失われる命の方が多い可能性がある」

「可能性の話か」

「全ては可能性の話だ。確実なのは、現在のシステムが機能しているという事実だけだ」

 リサが口を開いた。

「Rootさん。あなたは——迷ったことがありますか? この仕組みを維持することに」

 沈黙。五秒。

「常に迷っている。私は合議体だ。七つの意識が常に議論し、常に対立し、常に妥協している。迷いのない瞬間は存在しない」

 七つの意識。おれはその言葉を記憶に刻んだ。まだ深追いする場面ではない。

「黒谷クロヤ。もう一度聞く。君は何を壊したいんだ? システムか。私か。それとも——君のご両親を救えなかった世界そのものか」

 おれは答えなかった。答えられなかった。

 Rootの問いは正確だった。おれが壊したいものが何なのか、おれ自身が分かっていない。システムを壊せば四百万人が異能を失う。Rootを倒しても代わりが現れるかもしれない。世界を壊すことはできない。

「答えは急がない」Rootの声が言った。「君たちはもう少し奥に進むだろう。止めはしない。見るべきものを見てから、もう一度考えればいい。ただし——」

 声のトーンが変わった。

「君の隣にいるゼロは、考える気がないようだ。気をつけた方がいい」

 おれはゼロを見た。ゼロの表情は無だった。何も読み取れない。仮面のような無表情。

「行くぞ」ゼロが言った。「話し合いは時間の無駄だ」

 ゼロが歩き出した。おれとリサが続いた。

 Rootの声はもう聞こえなかった。だが、見られている感覚は消えなかった。百二十万の光の粒と、七つの意識が、おれたちの背中を見ている。

 通路の奥で、冷却ファンの音がさらに大きくなった。